第20話
「そんな目で見ないで! 何も言わないで良いからぁ!」
「何も言ってませんから……」
女性は両手で顔を隠しながら、彼に向かって陽気に訴える。ここでそんな嘘をつくメリットも何もない。彼女の発言はおそらく事実だろう、と彼は推測する。
だとすれば、とんでもない女である。天然というべきか。そんなに可愛い表現では済まないほどの衝撃がそこにはあった。
「今から取りに行くんですか?」
女性は自信なさげにうなずく。
「恥を忍んで行ってきます……」
「が、頑張ってください?」
「やっちゃったなぁ……もうすぐ荷物届くのに」
蛍は引っ越しをした経験がないため、漠然とした想像しかできない。だがトラックから荷物を搬入する光景は何度も見たことがあった。そのため、いま彼女が置かれている状況が理解出来た。
「なら俺が取りに行きましょうか? 多分お姉さんよりは早いですよ」
支店への距離を考えても、自身の脚なら10分もあれば戻って来られると考えた。しばらく走っていないとは言え、足の速さや持久力は平均以上。
しかし、女性は苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「お気遣いありがとうございます。でもこれは契約者が行かないとダメだから。他人に鍵を渡すなんてことはしないよ。犯罪につながるかもしれないし」
「……確かに」
彼は自身の発言がいかに的外れだったかを痛感する。しかし、彼女はそんな蛍を笑うことをせず、その素直な優しさに感銘すら受けていた。
「それに荷物は
「それなら良かったです」
「君、高校生?」
女性は素直な疑問をぶつける。蛍はそれにうなずき「高2っす」と付け足す。すると彼女は何かを思い出したように笑った。
「いまが一番楽しい時だね。3年生になると本格的に受験モードだし」
「そうですね。勉強やってるヤツはやってますけど」
蛍の頭に浮かんだのは黒澤芙実の顔だった。1年のころに必死に勉強に取り組み、学年1位にまで上り詰めた姿を彼は見ていた。ついこの間のことであるのに、随分と遠い過去のように思えた。
そういえば、黒澤は何のために勉強しているのだろう――。ふとした疑問が彼の頭の上に浮かぶ。受験のためだろうか、夢のためだろうか、それとも別の何かがあるのだろうか。本人に聞く以外にそれを知る手段はないが、そんな日常会話をして良いのかどうかも分からない。先日の事件のせいで。
「勉強はやった方がもちろん良いけど、しっかり目的を理解してやらないと無意味だから」
「経験談ですか?」
「あはは。まあそうだね」
彼女は『説教っぽくなった』と内省していたが、彼の軽口で少し救われた感覚だった。いずれにしても隣人同士になるのだ。蛍の家の表札を覗き込んで、名前を確認する。
「船島くんね。じゃあふなっちだね!」
「初めて呼ばれました」
あたかも一般的な呼び方だと言わんばかりの堂々具合である。彼の場合は「蛍」という呼びやすい名前であるため、男子からは下の名前で呼ばれることがほとんど。あだ名で呼ばれた経験は全くなかった。
「そう? じゃあしまっち?」
「どっちでも良いです」
「ならふなっちで!」
蛍から見て、女性は不思議な雰囲気を纏っていた。年上であるのは間違えようのない事実だが、それでも自身より幼く見える瞬間がある。出会って数分しか経っていないのに、
「お姉さんのお名前は?」
話の流れ的に、いま聞かないと聞きづらくなる可能性もあった。彼が自然に問いかけると、彼女は思い出したように笑う。
「
「よろしくです。川下さん」
彼も大学生であることは想像していたが、思っていた以上に年上であった。その落ち着いた雰囲気と子どもっぽさが混じり合って、やはり特徴的な雰囲気である。黒澤芙実の方が落ち着いて見えなくもなかった。
学生の一人暮らしにしては、引っ越すタイミングも珍しかった。蛍は問いかけるべきか迷ったが、先ほどのように一蹴されるのが目に見えていたため、言葉をグッと飲み込んだ。
「ごめんね。長々と。スマホありがとう。本当に助かったよ」
「いえ。また何かあれば言ってください。それでは」
「落ち着いてるなぁ。またね」
蛍はここでようやく帰宅することができた。ドアが閉まると、一気に肩の力が抜ける。柄にもないため息が出てしまった。両親は互いの趣味のために家を空けていて、彼一人でリビングのソファに横になった。
昼寝をするぐらいには疲れていた。意識が夢の中に飛んでいくその直前に、機械音が家中に響き渡った。
「……何かあればとは言ったけど」
彼が体を起こしたタイミングで、再び機械音が響く。リビングに設置してあるデレビフォンの画面は暗いまま。ということはつまり、誰かが玄関先のインターホンを押しているということだった。
それが彼のつぶやきにつながる。押した張本人が誰なのか。こんなにもすぐに察知できるのも珍しい。ドアの方に向かい、ドアガードをセットしてゆっくりと開ける。
「や、やあ! また会ったね」
「会いに来たの間違いじゃないですか?」
「こ、細かいことはいいじゃん! ね、ちょっと助けてほしくて」
別れてすぐ困ったことが発生するとは、随分な不幸体質らしい――。蛍は呆れながらも、薫子の話を聞くことにした。
「何がどうしたんですか?」
「支店はすぐ近くって言ってたでしょ?」
「はい。歩いて10分かからないと思います」
「私、この辺の土地勘が全くないの」
「引っ越して来られましたからね」
「もう一度だけスマホ貸してくれないかな?」
蛍は目を細めて彼女を見る。いや、睨んでみせる。薫子の瞳は、その視線から逃げる。
「他人にスマホを渡すなんてことはしませんよ。犯罪につながるかもしれませんから」
薫子の言葉をそっくり返すと、彼女はあからさまに
「ぐっ……お、お願いっ! てかなんでドアガードしてるの!?」
「なんか怖いんで」
「何もないから出ておいでよー! このままじゃ私が不審者みたいじゃん!」
「違うんですか?」
「違うよ!」
先ほど初対面だったとは思えないほどの軽快さがあった。ここで騒がれて通報でもされれば面倒なことになりかねない。彼は盛大に呆れながら、ドアガードを外してドアを開ける。靴を履き直して、自身が家の外に出た。
「人にスマホを貸すのは気が引けるので、俺も一緒に行きますよ」
「ほ、ホント!? ありがとうー!」
「スマホバッテリーぐらい持ってないんですか?」
「それが持ってないんだよ。現代っ子なのに」
「そんな自信満々に言われても……」
彼女がスマホの充電を切らさなければ、こんなことにはならなかった。
しかし、切れていたからこそ話すきっかけが生まれたとも考えられる。ここで再び思い返される梓紗の
(そりゃ無理だよ。見捨てるなんてさ)
蛍は心の中で静かに反論した。
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