第19話
梓紗とのランチを終えた蛍は、彼女を見送ったあと帰路についていた。
結局のところカフェでの会話がメインになってしまい、本命の本屋では10分ほど店内を見て回って、梓紗は彼のおすすめのラノベを一冊買っただけ。蛍も表紙で目を引いたファンタジー系のラノベを一冊購入した。いわゆるジャケ買いである。
終始、梓紗は快活な様子だった。確かに一瞬、めぐみの懸念が頭をよぎったとは言え、彼が昔から知っている紅林梓紗そのものであった。
スマホの時計は午後3時を指している。昼食を軽めにしたせいか、蛍は空腹感に襲われる。ただすでに自宅マンションが目の前にそびえていたから、家に何かあると信じてオートロックの鍵を回した。
蛍の実家は築20年ちょっとの7階建て賃貸マンションだった。都心からほどよく離れているが、駅もそこそこ近くて買い物には困らない。彼も幼い頃は一軒家へ憧れていたが、高校生にもなればその便利さが理解出来る。蛍の両親もそれに
エレベーターを上がって3階に着く。目の前に広がる建物だらけの景色にもすっかり見慣れていた。
降りて右手側にドアが並んでいる。彼の自宅は307号室で角部屋だった。足を進めると、一人の女性が手前の部屋、つまりは306号室の前で肩に掛けたカバンを漁っていた。
「こんにちは」
彼女の背中側を通らないと帰ることが出来ない蛍は、社交辞令的なあいさつを飛ばす。返事は期待していなかったが「あ、どうもぉ……」と気の弱そうな返事が返ってきた。彼は自宅のドアに鍵を差し込んで、ノブを下に押す。
「あれぇ……参ったなぁ……」
その瞬間、彼の耳に届いたのは、彼女の困惑したような声だった。視線を右に移すと、曇った表情でカバンの奥まで手を伸ばしている。
――蛍は絶対無理だと思うな。困っている人を見捨てるの。
梓紗の声が脳内で再生された。こんなにも早くそれを証明することになろうとは、彼が一番思っていなかった。回した鍵を引っこ抜いて、女性に視線を送る。
「どうかしましたか?」
蛍が声を掛けると、その女性は顔を上げた。先ほどあいさつした青年が、家に入らず見つめていることに驚いているようだった。カバンに突っ込んだ手を抜いて、口角を上げる。それは苦みのある作り笑顔だった。
「あーははは……鍵が見当たらなくて」
「鍵、ですか」
「はい。私今日からここに入居することになってて」
彼の脳内によみがえる記憶と似たような展開だったが、咳払いをして即座に打ち消す。あの時は違うと言い聞かせながら。
それ以前に、彼女の言葉でここが空室になっていたことを思い出した。引っ越しのトラックが来ていないことを見ても、これから搬入が始まるのだろうと察する。
「不動産屋に連絡したらどうですか?」
梓紗を家に招いたのは、それこそ子どもだから出来たことだ。いま大人の彼女を誘うのは、よからぬ誤解を生む可能性の方が高い。その辺の判断は冷静だった。
しかし、彼の提案に対して女性は苦笑いで返した。
「スマホの充電切れちゃってて……」
「えぇ……」
女性は穴があったら入りたい気分だった。背は高いが大人になる手前の雰囲気を纏った少年に、呆れられているようで。『そんな目で見ないで!』なんて言ってやりたい気分であったが、恥の上塗りはしたくなかったからか、視線を逸らした。
「電話ぐらいなら俺の使って良いですよ」
「えっ!? いやそれは申し訳ないですし……」
「でも困ってるんですよね?」
「そ、それは……まあ、はい……」
蛍の
赤の他人にそんなことをするのは、現代社会では危険視する声もある。彼女もどちらかと言えばそういう考えを持っていた。そのせいで、その優しさにある裏を読み取ろうとしてしまう。
「どこの不動産屋ですか? 調べて番号出しますんで」
スマホに視線を落とし、慣れた手つきで検索画面にたどり着く。そんな彼を女性は制止した。
「ちょ、ちょっと待ってください。その……本当に良いんですか?」
言葉の意味が分からず、蛍は顔を上げて素直に聞き返す。
「何がですか?」
「私、盗んで走り出すかもしれませんよ? スマホを悪用するかもしれないのに」
本心を聞いた蛍は、笑いながら返答する。
「そうなっても多分追いつけるので大丈夫です。遠慮せず使ってください」
「ぐっ……まあそれもそうですね……」
余裕にあふれた発言に、彼女はまた恥ずかしくなる。大人の余裕さをぶつけるつもりであったのに、ぐうの音も出ない正論パンチが彼女の頬を優しく殴った。
「分かりました。お言葉に甘えます。不動産屋は――」
女性が名前を告げると、蛍はものの数秒で電話番号を探し当てた。ここから歩いて数分のところにある大手不動産会社の支店だった。
「歩いた方が早くないですか?」
「と、とりあえず事情を説明したいので……」
そんなものか、と彼は一人で納得する。スマホの画面にある支店の名前と番号を確認した女性は、申し訳なさそうにソレを受け取った。
彼に背を向け、スマホを左耳に当てる。蛍は聞き耳を立てるつもりはなかったが、家に入って待つのも少し違うと考え、そのつまらない景色に視線を泳がせた。
「あっ、もしもし……今日入居予定のカワシタですが……」
カワシタと名乗った女性は、申し訳なさそうに事情を説明している。手持ち無沙汰感を感じていた蛍は、こういう時にスマホのありがたみを実感した。
「鍵を無くしてしまって……はい、はい、あの新居の鍵を……」
女性は話ながら、落ち着かない様子でキョロキョロと動いてしまう。時折、彼の視界に入る彼女は、蛍の目から見ても綺麗だった。セミロングの茶髪に薄化粧。整った顔立ちは、彼女の恋愛事情をさらけ出しているようにも感じられた。
「はい……はい……へっ?」
急に素っ頓狂な声を上げた女性に、思わず彼も目を向ける。今にも頭を下げようとしていた彼女の顔が、何故か急に紅潮し始めたのである。
何があったのだろうか。蛍は問いかけるかどうか迷うも、その隙を与えないほどの空気感が女性を包み込んだ。
「す、す、すみませんっ!! 勘違いしてて……い、今すぐ行きますのでぇ!」
近所迷惑だと言われても仕方がないレベルの大声だった。謝罪の言葉とともに、彼女は頭を下げる。不動産屋はいないのに、なんて彼の思考は通じない。
そのまま電話を切った女性は、顔を伏せたままスマホを蛍に差し出した。
「ありがとうございました……すみませんでした……」
「声ちっさっ……」
耳を澄まさないと聞こえない程度の声であった。彼はスマホを受け取るが、女性は何も言わずに背を向けて歩き出す。おおむね何があったのかは理解出来たが、結末を知らないまま本を捨てることはしないだろう。蛍は女性を呼び止める。
「大丈夫だったんですか?」
彼女も悩んだが、助けてくれた人間に事の
「えっとまあ……はいなんとか」
「鍵見つかりそうですか?」
「見つかると言いますか……」
女性は言葉を探すが、上手く誤魔化せそうなフレーズは頭に浮かばない。だからか、恥を少しでも薄めるように、小声で吐き出す。
「もらってなかったと言いますか……」
「……え?」
聞き間違いだと思った蛍は、聞き返す。女性はチラリと彼の目を見る。その真っ直ぐな疑問の瞳に、誤魔化すのが申し訳なくなった。
「鍵をもらう前にここに来ちゃった」
とんでもない女が隣に来たな――。蛍は初めて人助けしたことを後悔した。
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