第18話


 栗野めぐみと映画を見に行った翌日。蛍は最寄りの駅前で人を待っていた。都心からは少し離れるが、それでも地方の人間が見れば『栄えている』と判断するぐらいには人の行き来がある。約束の時間は午前11時。時計の針は午前10時50分を指そうとしていた。


「蛍ー! ごめん待ったー?」


 快活な声とともに、風に乗ってきたきらびやかな香りが彼の鼻を撫でた。声のする方に目を向けると、花柄のワンピースに赤茶色の髪が良く映えていた。蛍は改札を出てきた彼女を冷静に出迎える。


「全然待ってないぞ。早いな」

「蛍こそ。さすが、の鉄則わきまえてるねぇ」

「茶化すなよ」

「えへへ。行こっ!」


 今にも手を引いて走り出す勢いだったが、彼女は本屋のある方向を指さすだけで、決して彼に触れることはしなかった。その辺の距離感は十分過ぎるほどわきまえている。蛍は梓紗の隣に並んで歩く。


「昨日はごめんね。邪魔しちゃって」

「いや全然。アイツも気にしてなかったし」

「そっか。なら良かった」


 ホッと胸をなで下ろす彼女を見て、蛍は思わず問いかける。


「そこまで気にしなくても良いのに」


 すると、梓紗はすかさず反論する。


「そういうところ、分かってないんだねぇ」

「どういうところだよ」

ところだよ」


 梓紗はハッキリと物を言うタイプである。そのことは彼も頭に入れていたが、どういうわけか、今はそれ以上言及しようとしなかった。


「そういや悪いな。最寄りまで来てもらって」


 彼が話を差し替えると、梓紗は「ううん」と明るく首を横に振った。


「私が誘ったんだし、それぐらいは普通だよ」

「住む場所はと違うんだよな?」

「うん! パパももう転勤ないみたいだし、郊外に家買ったんだ」

「すげえな。郊外とはいえ」

「意外と安いみたいだよ。詳しいことは私に教えてくれないけど」

、だからか?」

「あはは。そうそう」


 蛍が声のトーンを抑えて言うと、梓紗は笑った。彼女の父親がよく言っていたセリフで、彼がその真似をしたからである。


「声、すっかり変わっちゃったね」


 梓紗は感慨深そうに言う。昨日も聞いたそのセリフ。蛍は「そりゃそうだろ」と返すと、


ことじゃないのっ!」


 彼女が可愛い子ぶって反論する。今日は妙にハッキリしない梓紗に対し、彼はようやく違和感を覚え始めた。


「梓紗だって変わったろ。昔より背伸びてるし」

「それだけ?」

「以外に何かあるか?」

「むー! 揶揄ってるなぁ!」

「ははっ。悪い悪い」


 しかしその違和感は、彼の頭に浮かんですぐに姿を消した。

 蛍がイタズラっぽく笑ってみせると、また快活な声がよく響く。小さな力で彼の肩をはたいてみせるが、痛みは全くと言って良いほどなかった。


「ねぇねぇ、学校生活はどう?」

「急にどうした」

「これでも結構待った方だよ? 蛍が文芸部なんて聞いたら、もう気になって仕方ないんだから」

「そこまで言うかなぁ……」


 その言葉を聞いた梓紗は道端で立ち止まって、彼の顔を見上げる。


「だってだって! サッカーはどうしたの? あんなに打ち込んでたじゃん!」

「中学でやめたよ。しちゃってさ」

「……そうなの?」

「ああ」


 梓紗から見て、彼は運動神経が非常に良かった。一度見たことはすぐにある程度できるようになるし、少なくとも小学校2年生まではクラスの人気者であった。クラスに一人は居るやんちゃな男の子。女子人気も高く、梓紗は子どもながらにしたことを思い出した。

 彼女はそのかんの船島蛍を知らない。ケガしたという発言を否定するだけの材料は持ち合わせていなかった。だから彼の言葉を素直に受け止めるのが、今は一番良いと考えた。


「にしても文芸部は意外すぎるよ。サッカーとは正反対じゃん」

「今は料理部と掛け持ちしてる」

「りょっ……!」


 これにはさすがの梓紗も驚きを隠せなかった。むしろ狂気しか感じない部活選択で、彼女の視線は一気に疑わしいモノに変貌へんぼうした。


「卵も割れなさそうなのに?」

「さすがに割れる。これには色々あったんだよ」

「色々って?」

「結構長くなるぞ」


 彼女の関心は、本よりも彼のこれまでに移り変わっていた。というよりも、本音を言えば最初から興味はなかったのだけれど。

 梓紗は周囲を見渡して、全国チェーンの喫茶店を発見する。すかさず指をさして「早めのランチしながら聞くよ」と提案する。本屋に行く気満々だった蛍は、その熱量に圧される形で従った。

 店内は昼前ということもあって比較的空いていた。慣れた様子で注文していく彼女とは対照的に、蛍は戸惑いながらも軽食とコーヒーを注文。カウンターでそれを受け取ると、先に注文を終えていた梓紗が席を確保していた。


「私も受け取ってくるから、お利口さんに待っててね」

「俺は子どもかよ」

「あはは。蛍くんは元気でちゅねー」


 彼女の後ろ姿を眺めながら、蛍は先に腰を落とす。嗅ぎ慣れない髪の匂いが空調に乗ってくる。


――ああいう子の方が怖いから気をつけてね。


 刹那せつな。蛍の頭の中に浮かぶ栗野めぐみの言葉。何を思ってそう思ったのかは分からないが、何故かいま彼の思考に浮かび上がってきた。

 別に怖い部分なんてない。彼女は俺が知っている紅林梓紗で、昔から全然変わってもいない――。彼はその言葉を打ち消すように断定する。しかし、心の底から自信があるかと問われれば、そういうわけでもなかった。


「ぼーってしてどうしたの?」

「うわ! おどかすなよ」

「ジッと一点見つめてたらそりゃ聞くってば。もしかして疲れてる?」

「いやいや。少し考え事してただけ」

「そっか」


 彼はめぐみの言葉を完全に噛み砕いて、意識を目の前に座る梓紗に集中させた。「食べながら話そ」との提案を受け入れ、頼んだサンドイッチをかじる。値段の割には腹に溜まらないような感じがした。


「それで、何があったの?」

「あぁ――」


 蛍は料理部に入部することになった経緯を説明した。昼食を抜いたことで隣の席の女子から試食の提案を受けたこと、それがある原因で失敗作に終わったこと、正直にマズイと伝えてしまったこと、今後も毒味をお願いされたこと。彼は自分で説明しておきながら、改めてその理不尽さを実感する。

 一方で、それを聞いた梓紗の表情は分かりやすく曇った。


「それ蛍悪くないじゃん! マズいのに嘘つく必要なくない? 正直なこと言わないと絶対成長しないし。その子、結構ヤバいよ」


 梓紗のド正論に、彼は何も言えなかった。それ以前に、蛍はマズイと言ってもいない。言ったのは栗野めぐみであり、彼はその責任を押しつけられただけである。今これを梓紗に言うと、話がややこしくなる気がして必死に飲み込む。


「まあ別に良いよ。無料タダで飯食えるなら十分だろ」

「タダより高いモノはない、っていうよ? 大丈夫?」

「怖いこと言わないでくれ。大丈夫だから」

「うーん……」


 彼女はフォークにぐるぐる巻いたパスタを口に運ぶ。美味しいはずなのに、その表情は曇ったままである。


「いずれにしても、その子には気をつけた方が良いと思う」


 そして彼女の口から出てきた言葉は、ここ数日でよく聞くようになったフレーズだった。これまでそんなこと言われたことなかったのに、この1週間でデジャブのように聞く。それもそれぞれ違う女子から。


「ま、何にも問題ないって。適当に受け流すことも得意だしさ」


 彼が言うと、梓紗は鼻で笑いながら即座に否定する。


「それ本気で言ってる? 蛍は絶対無理だと思うな」

「何がだよ」

「困ってる人を見捨てるの」


 梓紗の言葉には確信めいた根拠があった。その自信気な言葉と表情に、彼も良い反論が見つからなかった。


「小2の頃、私が家の鍵を無くしたの覚えてる?」

「……あったっけな」

「泣きわめく私をずっとなぐさめてくれたよね。ママとパパが帰ってくるまで蛍の家に入れてくれてさ。パパはすごく怒ってたけど、蛍は『怒らないで』って言ってくれたんだよ」

「単に物怖じしなかっただけだろうな」


 蛍の記憶にも確かに刻まれている出来事だった。それでも彼は、あくまでも昔の話だとして聞いている。当時の行動理由までは覚えていなかったせいで、背中がむずがゆくなってしまっていた。


「私は、ずっと感謝してるんだよ」


 その言葉には、感謝以外の感情が含まれていると、今の彼は気づかなかった。

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