第15話
飲み物とポップコーンを注文し終えた蛍は、カウンターの横でできあがるのを待っていた。それほど混んでいなかったこともあり、注文の品はすぐに出てくるだろうと踏んでいた。
昨夜遅くまで原作を読んでいたせいか、一人になった途端盛大なあくびが出た。
(上映中寝ないようにしないと……)
寝落ちしようものなら、それこそめぐみの逆鱗に触れるだろう。彼は意識を切り替えるように頬をつねった。頼んだ2つのコーラとポップコーンはまだ出てこない。
「――もしかして」
「ん?」
そんなとき、彼に向けて快活な声が届く。蛍が声のする方を見ると、セミロングで薄い赤茶色の髪が特徴的で、パッチリと大きな瞳をしていた女性が立っていた。背はめぐみよりも高く、黒澤芙実と同じぐらいだった。蛍が彼女を見下ろすと「やっぱり!」と露骨に驚いた。
「蛍でしょ!?」
久々に再会した旧友に話すように、トーンが上がる。しかし、蛍は
「そう、ですけど」
「私だよ!
彼女の声が彼の記憶を呼び起こす。
その名は、蛍にとっても非常に懐かしい響きであった。湧き上がってくるノスタルジックな感情は、彼を当時に連れて行く。
「梓沙か! 覚えてる覚えてる!」
「ほんっと久しぶりー! 何年振りだろ!?」
「小3以来だから……だいたい10年ぐらいか?」
「そっかぁ……元気だった?」
「おかげさまで。梓紗は?」
「見ての通り元気そのものって感じ」
紅林梓紗。船島蛍と同い年で、幼稚園から小学校3年生まで一緒だった。世間一般で言うところのいわゆる幼馴染である。当時二人が住んでいた都営住宅の隣同士で、家族ぐるみで付き合いがあった。
しかし、彼女が小4になる前、父親の転勤で九州の熊本に引っ越すことになった。当時はスマホも持っていなかったせいで、それから二人は徐々に疎遠になってしまったのだ。
そんな彼女が、地元である東京に居る。しかも自身の目の前に。それをきっかけに、彼の疑問の蓋が綺麗に開いていく。
「なんでここに? 確か熊本に引っ越したよな?」
蛍が問いかけると、梓紗は「うんうん」と嬉しそうに頷いた。
「実は東京に戻ってきたんだ」
「そうなのか?」
「うん。中3までは熊本に居たんだけど、またパパの転勤でね。実は去年から居たんだよ」
「えっ!? そりゃ聞いてないって」
「あはは。と言っても連絡手段なかったし……」
蛍は子どもながらに、梓紗の両親と仲良くしていた親を思い出す。ガラパゴスケータイは普及していたため連絡先を知らないということはないはず。しかし、何度か『データ破損した』と騒いでいた姿も同時によみがえる。
とは言ってもだ。梓紗の両親には番号が残っているはず。連絡してくれば応対しただろうに、なんて考えて止める。きっと色々な事情があるのだろう、と。
「じゃあ都内の高校に通ってるのか?」
「うん。泰西高だよ。蛍は?」
「藤ノ宮」
「へぇ頭良いんだー! 何か意外だなぁ」
「一言余計だな」
「えへへ」
手を後頭部にやって笑うその姿は、昔と何ら変わっていなかった。
蛍の記憶の中に居る彼女は、まさに
「背、すごく伸びたね」
「お前より小さかったっけ」
「声も低くなってる。大人っぽくなったね」
「親戚のおばちゃんみたいなこと言うなよ」
「残念。ピチピチのお姉ちゃんだよー」
背丈が芙実に似ているせいか、妙な錯覚をしてしまうが、彼女とはまた違った雰囲気があった。持ち前の天真爛漫さに加えて、周囲を照らす太陽のような輝きを纏っている。その快活さは、無意識に人の背中を押すほどに。胸も芙実より大きい。
「梓紗も映画見に来たのか?」
「ここにいるってことはそりゃそうだよ」
「まあそうか。何見るんだ?」
「この世界の先端で愛は叫ばない、ってやつ」
「俺と同じヤツじゃねえか」
「そうなの! え、じゃあさ――」
梓紗の口から出ようとした言葉は、想像するに
しかし、それを阻止したのは、カウンターの店員が差し出してきた注文品だった。
「おっと、ありがとうございます」
「あー……もしかして誰かと見に来てる?」
「まあな。何かあったか?」
「う、ううん。何でもない。気にしないでね」
「そうか?」
蛍としても、長引かせてめぐみを待たせるわけにはいかなかった。スクリーンへの案内も始まっていた。「じゃあな」と彼が離れそうになると、梓紗が慌てて呼び止める。
「ごめん最後に連絡先!」
「お、おうそうだな」
「これも何かの縁だと思うし、今度遊び行こうよ」
「オッケー。積もる話もあるし」
「うんうん! えへへ」
メッセージアプリの連絡先を交換すると、蛍は梓紗へのあいさつもそこそこにめぐみの元へ急いだ。彼女は分かりやすくスクリーンへの受付前で待っていた。
「悪い! 遅くなった」
「遅い最低最悪女たらし」
「い、言い過ぎじゃない?」
「ばかばかばかばか」
それはいつもの毒舌というより、ただの暴言であった。
だが、めぐみとすれば良い気はしない。本人的にはデートをしているのに、その最中に違う女との会話で盛り上がっているのだから。めぐみでなくても良い思いはしないだろう。付き合っているわけではないため、倫理的には何の問題もないのだが。
「さっきのヤツは幼馴染なだけだって」
「お、幼馴染!?」
めぐみは今までで一番大声を出した。館内の視線が二人に集中する。
蛍が
「最悪ほんと無理なんでこうなるの」
「く、栗野?」
ただの幼馴染であれば、大した話ではない。だがめぐみには妙な確信があった。あの女も間違いなく、船島蛍という人間に何かしらの魅力を感じているのだと。
つい10分前までの春色はすっかり消え去り、黒い絵の具がポトリポトリと心の中に落ちていく。蝕まれていく感情に身を任せ、二人はスクリーンのある館内に足を踏み入れる。指定席に並んで座ると、無駄に柔らかい座席にすらムカついた。
「こ、これご指定のコーラです……」
「……ん」
「ポップコーンもどうぞ……」
「……ん」
めぐみは本編前に流れる注意事項を見ながら、適当な返事をする。まもなくコマーシャルが流れ始めるが、二人が座る列に人は居らず、全体を見ても全然埋まっていなかった。
また二人きり。うん、大丈夫。このイラつきも、時間が経てば少しはマシになるだろう。ランチが勝負、そこで楽しい会話が出来ればそれで――。めぐみはめぐみなりに、いまこの瞬間を楽しもうという感情が働いていた。
「あれー! 蛍もこの列? っていうか隣じゃん!」
「あ゛?」
災難は終わる気配を全く見せなかった。
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