第14話
今日の彼女のボブヘアーは、まさに桜色であった。
週末のショッピングモールは非常に混んでいる。多種多様な人間が行き交って、それぞれの生活を送る。人間観察が趣味でもない以上、多くの人は他人の行動には興味を示さないだろう。
めぐみも例外ではない。普段の彼女であれば、まず人混みを避けて行動するし、必要最低限の動きしかしない。その時間は本を読む時間に充てる方が、めぐみの精神衛生を保つには良かった。
しかし、今日は違う。人を待っている。自身が苦手な人混みの中で、彼が来るのを待っている。
考えてみると、まおみ以外と待ち合わせることは今までに無かった。だからこういう場合、どうしていれば良いのか彼女自身分かっていない。ショッピングモール内の目印である施設中央の中庭で一人待つ。彼は来ない。中庭の時計は、もう少しで約束の10時を指そうとしていた。
それもそのはず。気合いを入れすぎためぐみは、待ち合わせの30分前に着いてしまったからだ。遅刻だけはしたくない、なんて考えがそうさせた。朝も7時に目が覚め、そこからただジッと待つことができなかった。むしろこの時間までよく持った方である。
時計の長針が天に近づくにつれ、彼女の胸も高鳴った。ただ口元は緩まず、おかしな緊張感が彼女の全身を包み込んだ。滅多につけない可愛らしい腕時計を見ながら、聞き慣れた声の登場をひたすらに待つ。
「――悪い! 待ったか?」
蛍が来たのは、ちょうどその時だった。彼女の姿を見つけると、小走りで近づいて声をかけた。
「大丈夫。私も今来たから」
めぐみは冷静に嘘を吐く。でもそれは、決して彼を不快にさせないためのモノ。いわゆる優しい嘘だった。約束の時間は10時で、時計を見ると9時50分。自身が早すぎるだけで、蛍の10分前行動も十分過ぎるほどだった。
ただ彼女が彼を見上げると、不思議そうな視線が落ちてきた。まるで何かに気がついたかのような目。それだけでめぐみは口元が緩みそうになった。
今日の彼女は普段とひと味もふた味も違うのだ。ほんのりと、決して派手じゃなく自身を美しく見せる程度の薄化粧に、ボブヘアにもアレンジを加えておしゃれ感を演出。私服もスタイルを強調しながら、色気推しにならない絶妙な服をチョイス。無地の白シャツに桜色のカーディガンを羽織って、春感を出した。水色のジーンズにベージュのカバンが大人感を強調させた。
「珍しっ! 今日は怒らないんだ」
――が! 蛍の目の付け所は彼女の想定とは全く違った。
普段通り。学校での光景と何も変わらない。違うのは互いに私服であるというだけ。蛍も水色の長袖シャツにチノパンという可愛らしい服だったが、そのテンションは普段と変わらなかった。
「……どういう意味かな?」
それでも、すぐに感情は吐き出さない。今日のめぐみは機嫌が良いのもまた事実。いつものノリで返答してしまえば、それこそ特別感を自ら手放すことになる。普段より優しく問いかける。
「まあいいじゃん。そんなことはさ」
「何か誤魔化された気がする」
「そんなことしてないって。それよりも映画の時間だろ」
「うん。行こっか」
蛍はスマホの画面に映る時間を見て、めぐみに訴える。彼女の言うとおり、彼は誤魔化したのだが、今は別にそれを追及する気にはなれなかった。
映画館は8階建てのショッピングモールの7階にある。最上階はフードエリアになっていて、今日のような休日は家族連れで賑わいを見せている。施設の中心部が吹き抜けになっていることもあって、下の階に居てもエスカレーターに乗っていれば上の様子が分かった。
「今日のために原作読破してきたわ。実写化成功すんのかなぁ」
エスカレーターに乗りながら、蛍が二段下に立っているめぐみに言う。すると彼女は少し驚いた表情で返答する。
「え、読んでなかったの?」
「急に誘ってきたから慌てて読んだんだぞ。栗野ってあんなラブコメ読むんだな」
「読むよ。私雑食だから」
「背中がむずがゆかったわ。読んでて恥ずかしかったもん」
めぐみの胸が鳴る。鐘の音が鳴り響くように心臓を撃ち抜かれる。
今日のために読んでくれた。見てくれた。原作を知った上で見たいだけかもしれないけど、それでも時間を割いてくれた――。彼女にとって、その事実が嬉しかった。
「しっかり読み込んだんだ。さすが読書バカ」
「おう。……それって褒めてるよな?」
「あはは。もちろん」
エスカレーターを降りては乗る。それを繰り返しながら会話しているせいか、普段よりも話のテンポが軽快だった。そして蛍もその違和感に気づく。
今日の栗野めぐみは、雰囲気からして明るかった。普段のオーラを濃い青色だとするならば、今日は正反対の桜色。周りの雰囲気を照らす空気感があった。何より、その表情。ここまで頬が崩れた彼女を見たのは初めてと言っても良かった。
そのまま7階まで上がりきると、映画館も家族連れで混んでいた。予約はしていなかったが、二人は受付上にある画面を確認する。目的の映画は空席になっていて、顔を見合わせた。
「面白くないのかもな」
「昨日公開されたはずなんだけどなぁ」
「まあいいだろ。思いのほか掘り出し物かもしれないぞ?」
「……うん」
蛍の言葉は本心だった。彼の場合は、話がどうであれ物語を吸収できればそれで良かった。面白い話を読みたい、見たいわけではない。ただその世界のあらゆる感情を吸い取って、悦に浸りたいだけなのだ。
それでも、めぐみはその言葉が嬉しかった。自身の提案を否定することなく、素直に受け入れるどころかポジティブな言葉に変換してくれる。それは優しさ以外の何物でもなかった。
チケットを購入した二人だが、上映時間までは少し時間が空いていた。スクリーンへの案内時間まで残り5分程度だったこともあり、めぐみは隅の方で待つことにした。しかし――。
「せっかくなら買おうよ」
「え、何を?」
「映画館と言ったらアレでしょ」
彼の提案に、めぐみは少し考えて気がついた。映画館と言えば――。王道かもしれないが、一種の憧れみたいなものあって、彼女はその言葉にうなずきで答えた。
「映画館値段だけど、せっかくだし!」
「私コーラにする」
「早っ。ポップコーンも買うけど、結構食べられるだろ?」
「……結構? どういう意味?」
「あぁいやごめん。なんでもない」
「別に怒ってないってば」
「そ、そうか?」
蛍は無意識に結構などという
「買ってくる。ちょっと待ってて」
「じゃあお金」
「あー、いや後でもらうわ。気にすんなー」
もらう気のない言葉だった。めぐみが千円札を差し出しても、彼はそれを受け取らずカウンターに向かった。少し呆れながらも、一人になった彼女は千円札を財布に戻しながら彼の優しさに口角が上がる。
(あーもう……幸せすぎるっ……!)
大したことは何もしていないのに、この時間が一生続けとすら思っていた。スマホを見る気もおきず、めぐみは周囲を見渡す。少し離れたカウンターで、彼が買い物をしている。後ろ姿を見てもスラッとしていて、かなり目立っていた。
「………は?」
――そう思ったのも束の間だった。思わず、めぐみは言葉を漏らした。
視線の先にいるのは船島蛍で変わりない。注文を終えて待っているところに、一人の女性が声を掛けたのだ。彼もまんざらでもない表情を浮かべて、何かを話している。さきほどまでの春色が、色あせていく。
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