第11話


(映画……週末二人で映画……!)


 栗野めぐみは緩む口元を抑えるのに必死だった。

 隣を歩く蛍をチラリと見上げ、また視線を戻す。彼が使う制汗剤の匂いにもすっかり慣れ、爽やかすぎるミントの香りも今となれば十分過ぎるほど好みになっていた。


「……なんか楽しそうじゃない? 謝りに行くの分かってる?」


 無論、蛍もそんな彼女の様子に気づかないはずもなかった。歩きながら問いかけると、めぐみは彼の目を見ることなく答えた。


「分かってるよ」

「まさかまたケンカする気じゃないだろうな?」

「相手の出方次第では」


 それはケンカ慣れしているのような発言だった。蛍はため息をついた。まさか彼女がこんなにもケンカっ早いなんて。まさに水と油。謝罪のためとは言え、本当は会わせない方がお互いのためかもしれない。


「頼むからやめてな? 次はもう止められる気がしないから」

「別に止めなくても良いのに」

「怖いこと言うなよ。冗談に聞こえないぞ」

「冗談のつもりで言ってないけど」

「……栗野ってやっぱ、厳しいって言われるだろ?」

「言われたことないよ」

「意地悪の間違いだったか?」

「もっと言われたことない」

「言えないんだろうな」

「どうして?」

になるから」


 矢継ぎ早に言葉のラリーが展開される。だがお互い顔を見合わせておらず、前を見て歩きながらの会話。それでも互いにどんな表情をしているのかある程度察知がついた。

 めぐみの蛍に対する条件は、案外すんなり受け入れられた。今週末、二人で映画を見に行くというもの。『小説の実写化で見てみたい。船島君がどう思うか気になる』なんて誘ってはみたものの、本心は全く言っていない。


(尊すぎて死ぬ。映画見ながら死ぬ)


 チラリと視線を彼に向け、その横顔に胸が高鳴る。映画の時もこうなるに違いない。真っ暗の中で彼女の視線がスクリーンに向かず、自身に向いているなんて考えると、まるでホラー映像の構図である。

 とは言いながらも、今のめぐみは至って冷静。無表情とも見える顔で廊下を歩いている。今の彼女を見て『恋する乙女』だと思う人間はまずいないだろう。当の本人もそれは認めていないのだが。

 週末二人で映画を見る、という予定が入った事実は消えない。彼にとっては、ただ芙実に謝罪するための条件を飲んだに過ぎない。

 ただ! 一方のめぐみはどうか。因縁を黒澤芙実をダシにして貴重な貴重なの約束にこぎつけた。心の中は浮かれないはずもない。


「ほら、着いたぞ」

「分かってるって」


 そんな彼女の心情などつゆ知らず。家庭科室の前に立った蛍はこっそりと中を覗き込む。生徒複数人がエプロン姿で作業をしているが、肝心の芙実の姿が見当たらなかった。


「居ないんじゃないの」

「まあ……入ってみよう。聞けば何か分かるだろ」


 彼は自分に言い聞かせるようにしてドアの前に立つ。手を掛けたかと思えば、何かを思い出したかのように振り返る。視線の先には自身を見上げるめぐみが居た。


「いいか? マジで喧嘩腰になるなよ?」

「そんな何回も言わないでよ。本当に分かってるから」

「いやもう不安で不安で……」

「早く開けなよ。本の続き読みたいんだから」

「分かった分かった。じゃあ行くぞ」


 これ以上ここで議論しても仕方がない。蛍が家庭科室の引き戸を開けると、中に居た女子生徒たちの視線が集中した。

 それを察知した彼は、すかさず愛想笑いを浮かべる。部員の中にはかつてのクラスメイトの姿もあり、小さく安堵あんどした。


「すんません。黒澤居ますか?」


 彼が知る限り、黒澤という名字の人間はこの学校にただ一人。自身の後ろに立っている少女とケンカしたあの黒澤芙実だけである。

 ところが、女子部員たちは苦笑いを浮かべて互いを見合っている。その意味が分からず、彼もどう言葉をかければ良いか考える必要が生じた。


「ちなみに聞くけど、どんな用事?」


 3年生の女子生徒が蛍に問いかけると、彼は苦笑いをして口を開く。


「謝りたくて。昨日のことを」

「昨日のこと……もしかして君たちが?」


 彼女がハッとしたように小さく指さすと、彼は追加して苦笑いするしかできなかった。


「まあ……はい。黒澤から聞いてますか」

「聞いてないけどなんとなく察してる」

「……と言いますと」

「芙実なら居るよ。ほらあそこ」


 蛍が指さされた方を見ると、部員たちから離れた所に一人の少女。伸びた黒髪がだたりと垂れ下がっていて、その表情は確認できなかった。


「あ、あれが黒澤っすか?」

「うんそうだよ。あんまり話したことないの?」

「いやクラスメイトですけど……教室と雰囲気違いすぎて」

「ここじゃみたいなキャラだからね。嫌なことがあったら、ああやって私たちと距離を置くんだ」

「そ、そうなんすか……」

「最初は気を遣ったけど、本人からも言われてるからさ。真面目に来るだけ偉いと思うよ」


 蛍はもう一度その少女に視線を送る。やはり顔は見えないが、伸びた黒髪の様子を考慮すれば、黒澤芙実と結論づけるにあたいした。


(あの黒澤にそんな一面があったなんて……)


 そこには彼女がいつも解き放っているオーラはなかった。家庭科室に入った時には芙実の存在すら察知できなかったぐらいだ。今の黒澤芙実は、先ほどまで教室で愛想を振りまいていた少女とは正反対だった。

 蛍は同時に罪悪感に襲われた。自分が余計なことをしなければ、今日も黒澤芙実は元気に料理の練習に励んでいたかもしれない。昨日のオムライスだってあんなにマズ……変な味がしなかったかも――。

 そんなことを考えていると、背中からシャツを引っ張られる。


「早く行こう。居るならいいじゃん」

「いやお前な……」

「面倒な女だよ。構ってほしいだけだから」

「約束したよな。喧嘩腰になるなよって」

「……分かってるよ」


 めぐみは彼の言葉を素直に飲み込んだ。今までにないほど真面目な声をしていたからである。それに芙実に対する彼女の暴言も、妹のまおみであれば『あんたが言うな』と即座に返答するだろう。

 だがこの場にはその一面を知っている人間はいない。だから同じ料理部のメンバーも苦笑いする。


「本当に大丈夫か? 変なこと言ったらマジで怒るぞ」


 その彼のしつこさに、めぐみもイラつく。


「もう言わないって。どうしてそこまでこだわるの?」

「何がだよ」

「あの子にだよ。謝ろうなんて言っても、私は本音を言っただけだよ。実際のところ本当に食えたモノじゃなかったし」

「別にこだわってなんかないって」

「好きなの? 嫌われたくないからでしょ? 素直にそう言いなよ」

「お前なぁ……」


 蛍は呆れながら頭を強めに掻く。どうしてそういう論理展開になるのか。悪いことを言った事実は消えることもない。だから謝る。人間として至って普通の思考回路であるが、栗野めぐみはそういう冷静さが欠けていた。今は。

 二人の会話を聞いていた一人の料理部員が、その様子を見てクスクスと笑った。


「告白なら止めた方が良いよ。いますごく不機嫌だろうし、オーバーキルされちゃうかも」

「だからしませんって……。先輩まで揶揄からかわないでくださいよ」

「あはは。君たちが可愛くてつい」

「笑い事じゃないっすよ……。栗野ももう良いだろ」

「私は最初から準備できてるよ。船島君待ちなんだけど」

「あぁっー! もう!」


 両手でその頭を掻く。以前よりも誰かに振り回されることが増えてきていた。

 でも、彼は認めない。認めてしまったら、学校生活が非常に憂鬱ゆううつになってしまうから。

 蛍は見て見ぬふりをして、黒髪少女に近づいた。

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