第10話
翌日。文芸部の部室にはいつもの光景が戻っていた。いつも通り栗原めぐみが部室のドアを開け、遅れること数分して船島蛍が顔を出す。
ここから約1時間半から2時間。黙々と読書を続けてたまーに喋るのが彼らのルーティンである。
「やっぱりダメだ! このままじゃ絶対にダメだ!」
――否。いつもの光景だったのはほんの一瞬の話。二人が本を読み始めてから数分後、彼が思い立ったように叫ぶ。めぐみは視線を上げると、蛍の目が自身に向いていることに気がついた。
「急に何? ついにラノベ主人公が乗り移った?」
「違げーよ! 第一、お前も当事者なんだぞ! 自覚あるのか!?」
「ないよ。何のことか分からないし」
めぐみは再び本に視線を落とし、冷静に言葉を打ち返す。その素っ気ない態度に普段冷静な蛍もイラつきを隠せなかった。頭を掻いて彼女に向かい合う。
「なあ」
「何?」
「こっち見ろよ。ちょっと話そう」
「……見なくても話せるでしょ」
「そういうことじゃなくてだな」
取り付く島もなかった。やむを得ず、蛍は椅子を彼女の机の前に持ってきて、背もたれを前にして座る。無理やりにでも彼女の顔を上げさせるつもりだった。それぐらい彼は、昨日の黒澤芙実との一件が尾を引いていたのである。
「栗野ってば」
「聞いてるから」
「頼むから一旦手を止めてくれ。俺はマジで言ってるんだ」
蛍は頭を下げる勢いで言うが、彼女の視線は相変わらず手元の小説に向けられている。彼の口調は今まで聞いたことがないほど芯があって、その熱意が彼女にもしっかりと伝わっている。――が。それは蛍が想定したこととは違った意味で。
(ちょ、急に何!? そんな強引に……! あぁもうだめ……)
めぐみの脳内はお花畑になっていた。昨日まで散々荒らしていた黒澤芙実はもういない。今こうして、蛍が初めて自身を求めてくれている。その真っ直ぐ自身を見つめる熱い熱い瞳に、すっかり彼女の心は歪んだ感情に浸食されていた。
彼から昼食を譲ってもらった時点で、彼女の中で何かが変わろうとしていた。あれがきっかけとなって芙実を踏み台にし、彼の隣でオムライスを食べるという一大イベントを成し遂げることができた。とてもとても
「はぁ。分かったから。止めれば良いんでしょ」
ただ、あくまでも冷静に。自身の興味を悟られないように、いつもの栗野めぐみを演じる。それが今の彼女に課せられた使命。というか、一人で勝手に課している宿命みたいなものだった。
「……なんでニヤけてんの?」
「えっ!? べ、別に何でもないわ……」
「何か悪役令嬢みたいだな」
だからこうして少しでも嬉しいことがあると、簡単にメッキが剥がれてしまう。めぐみは演技派でもなんでもないくせに、船島蛍という人間の前では必死になって自分を取り
それ以上追求されないように、咳払いを一つしてゆっくりと顔を上げる。それに合わせて小説を閉じるが、栞を入れ忘れたことに気づくのはまた別の話。
「それで、さっきから一体何?」
蛍の熱い瞳は相変わらず。飲み込まれそうになったせいか、めぐみはため息を吐きながら咄嗟に視線をわずかに逸らした。
「分かってんだろ? 黒澤の件だよ」
「何か悪いことした?」
「まあ俺が気まずくなるぐらいには」
彼は頭を掻きながら今日の出来事を説明し始める。
「明らかに引きずってんだわ。今日のアイツ見てるとさ。普段なら誰とでもワイワイ話すんだけど、今日はテンション低かったし」
「よく見てるね。あの子のこと」
「隣の席だし。ていうかそういうことじゃなくて」
「別に船島君が何か言われたワケじゃないんでしょ」
「そうだけど。ああなったのは俺らの責任だろ?」
「私も入ってるの?」
「比率で言うとお前が8割ぐらいだぞ?」
だが蛍の言うとおり、今日の芙実は露骨にテンションが落ちていた。ただそれは、彼が昨日の事情を知っているからそう見えただけ、かもしれない。クラスメイトに話しかけられても、平然と会話はしていた。だがその中でわずかなニュアンスの違いや言葉を包み込むオーラを彼は察知した。
その責任は俺たちにある――。しかし、彼の本心を言えば『栗野めぐみのせいだ』と断言する方が手っ取り早い。蛍なりにめぐみのことを思っての譲歩だった。
「……分かってるよ。そんなことぐらい」
彼のその真面目な視線に、めぐみも認めざるを得なかった。彼女自身も、そこまで意固地になる理由もなかった。ただあるのは、昨日のことは思い返すだけで相当ムカムカするという事実だけ。
蛍を口説き落とすために誘ったのではない――。そのことが分かったのはめぐみにとって良かった。そこで大人しく別れていれば、全員が困ることもなかったのだ。
「――」
それが視線となって彼にぶつかる。
「……なんだよ?」
「いや別に」
そう考えると、本当に悪いのは彼なのではないか。蛍が変な提案をしたから、結局みんなが嫌な思いをしているのではないか。めぐみの思考がどんどんスライドしていくが、それは当の本人も理解していた。
「元はと言えば俺の提案が余計だったけど。あれは無いぞさすがに」
「あれって?」
「マズイって言い切ったろ?
蛍の脳内に刻み込まれた24時間前の光景。
めぐみが『ニワトリのエサ』と表現した辺りから流れが一気におかしくなったが、それを遙かに上回る爆弾を彼女は落とした。
「だって事実だったし。嘘を嫌う人かなって」
「にしてもだぞ? もう少し言い方ってもんがあるだろ」
「船島君は美味しいと思った?」
「…………話を逸らすなよ」
「あなたもね」
バツが悪そうに視線を逸らした蛍は、そのオムライスの味を思い返す。
大量にケチャップを入れているはずなのに、全く甘みがなく、むしろ強烈な苦みが味覚を襲った。めぐみと口論している間に焦げたせいだろうが、そのお焦げを芙実がヘラで粉々にしたため見た目にはあまり影響が出なかったのも大きい。
それを『美味しい』と言える優しさまでは、さすがの彼も持ち合わせていなかった。
「お腹の調子は大丈夫なの? 昨日全部食べてたけど」
「恐ろしいほど何もない。これから何か起こる気がしてならないけど」
「先回りして病院に行くことをおすすめする」
芙実本人がいないこともあって、中々ボロカスな言い様である。だがめぐみの言う通り、彼はその差し出されたオムライスらしき何かを一粒残さず平らげたのだ。それに因果関係があるのかどうかは分からないが、今日一日何も食べる気が起きず、放課後を迎えてしまった。相変わらず食欲は戻ってこない。
「とにかく、謝りに行こう。ひどいことをしたのは変わらないだろ?」
「私、あとで行くから。一人で行ってきなよ」
めぐみの適当な提案に、蛍は呆れながら言う。
「ダメに決まってるだろ。まずお前一人じゃ絶対に行かないし、行ったとしても世紀末戦争になるのが目に見えてる」
「言い過ぎだよ。もはや悪口じゃん」
「悪口の方がまだ可愛いよ」
しびれを切らせた蛍は、彼女の細い腕を優しく掴む。
「ちょっと……! 何!?」
「行くぞ。ほら」
強引とも受け取れるほど、彼はめぐみの腕を引っ張り上げようとする。対照的に彼女の胸はチクチク高鳴っていく。
痛い、痛くないの問題ではない。あの船島蛍が自身の体に触れている。これまでそんなことをする人間ではなかった彼が、私の。誰も掴んだことのない私の腕を――。
「ちょ、ちょっと待って……!」
冷静に。平然と。彼の前ではそう決めていた。なのに、栗野めぐみの脳内に浮かんだ黒澤芙実によって、彼女は一歩を踏み出すことを決意する。
「じょ、条件がある」
「はぁ? 条件ってなんだよ」
「週末、映画でも見に行かない?」
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