第6話


 栗野めぐみは放課後欠かさず、文芸部の部室にやって来る。出席率で言えば部内トップで、次点に船島蛍が続く。彼ら以外の4人の部員も気が向いたタイミングでやって来るが、実質幽霊部員状態。文芸部と言えば『栗野か船島』という印象を持っている生徒も少なくない。

 ただ蛍と違って、めぐみは決して雰囲気が明るいわけでない。クラスでも『大人しい女子』という立ち位置で、友達だって決して多いとは言えない。昼休みに購買前でキョロキョロしてしまったのが良い証拠だ。


「……遅い」


 めぐみは思わずつぶやいた。いつもなら地の文を追いかけるのも苦じゃないが、今日はどうも頭に入ってこない。それは全て、文芸部のもう一人の象徴である彼が来ないからである。

 すでにホームルームが終わって30分以上経過した。二人のクラスは違うが、さすがにここまで長引くこともないだろう――。めぐみはそう考えたが、そうするとなおさら違和感があった。

 基本的に蛍は、休む場合の連絡を欠かすことがない。高校生にしてはよく出来た人間であった。何かあれば文芸部メンバーのグループメッセージに必ず一言残すのだが、今日はそれがない。


「はぁ……何してんだろ」


 部室には自分以外誰もいないせいか、めぐみの独り言も必然的に大きくなる。蛍が顔を出さないことに対する不満。きっと彼が居たら『その本、面白くなかったか?』なんて聞いてくるだろう。彼女はその光景が容易たやすく想像できたせいか、自身を鼻で笑った。

 思い返される昼休み。彼が半ば無理やりに差し出してきたパンの味は、今も胸の辺りをウロウロしている。しばらく忘れられそうにないぐらいの。改めてお礼も出来て、何より話す話題にもなる。それなのに――。思考が胸の中心に近づこうとする。


――彼とラブコメしたい……ってごめんさすがにこれはキモい


 ただ、それを邪魔するのは理性である。頭をよぎる先日の出来事。めぐみは悪寒で肩を震わせる。自身の身内から恥ずかしい秘密を暴かれた時のあの感情は、出来ればもう二度と味わいたくない絶望の味がした。

 それでもめぐみは平静を装っている。ただこれは見栄でしかなく、水を掛ければすぐに落ちてしまう塗装のようなもの。心にそれを塗ったところで、彼女の本心は透けている。それは妹のまおみから見て、明らかだった。

 SNSの怖いところは、自身の発言が残ってしまうこと。必死に否定しても、言葉を紡いだ自分が確かに存在する。今や誰もがデジタルタトゥーを刻める世の中になってしまった。


「……あーっもう!」


 めぐみは本を勢いよく閉じて、それを机に置く。ドアの方に視線をやっても、相変わらず誰も入ってくる気配はなかった。

 まおみのせいで羞恥心しゅうちしんむしばまれためぐみは、そんな自分を誤魔化すように立ち上がって部室を出た。目的地は船島蛍が居る2―Aの教室だった。

 違う。違う。これは私じゃない。全部、全部、まおみのせいなんだから――。自身が彼を迎えに行くのは、まおみが余計なことを言ってきたから。めぐみはそう考えて思い込んでその足を進めた。それが恋とか愛とか。今の彼女にはどうでもよかった。まおみから見れば、十分理不尽であるが。


 2―Aの教室の前は放課後らしく静かだった。その瞬間、ホームルームが長引いているという仮定は崩れ去る。ただここまで来たからには、教室を覗くぐらいするべきだろう。めぐみがこっそり顔を出すと、中には男子1人と女子1人が仲よさそうに談笑していた。


(あ、これは邪魔しちゃマズイやつだ)


 めぐみは直感でそう思った。話したこともない二人だったが、女子生徒が少年を見上げる表情にはがあった。咄嗟に顔を引っ込めて、見えない場所に陣取った。

 あんな顔をして話している子は、きっとそうだ。確証は全くなく、一人の少女の直感でしかない。それでも、彼女の心の表面に浮かんでいる文言を言い当てられる自信があった。

 もしかして、自分もあんな甘い顔をしているのだろうか――。ふと考え、頭に熱が上っていく。冷静さが消え失せていく――。


「どうかしたか?」

「ひゃあ!!」


 ――寸前に呼び止めたのは、教室に居た青年の一人だった。ただめぐみは話しかけられると微塵みじんも思っていなかったせいか、廊下全体に響き渡る叫び声を上げてしまった。職員室が同じ階であれば、教師たちがすっ飛んでくるレベルである。


「わ、悪い……! そんなビビるとは思わなかった。いや驚かせるつもりもなかったんだけど」

「う、ううん平気平気……」


 少年は頭を掻きながら謝罪する。めぐみも悪気がないことは分かっていたから、ドクドクと脈打つ胸を押さえて返答する。

 一体どうして気がついたのだろうか。めぐみは血液が騒がしいままの頭で考える。声をかけたわけでもない。ほんの一瞬だけ視線をやっただけ。その一瞬の変化を読み取ったのだろうか。考えたところで答えは出てこないのだが。

 数秒ほどすると、めぐみも落ち着きを見せた。それを見た少年は改めて口を開いた。


「どうしたの、栗野さん」

「あ、北君だったんだ……」

「あはは。俺だぞー」


 少年の正体は、蛍とも仲の良い北耕祐であった。夕焼けによる逆光で良く分からなかったようだが、いちいち告げるほどでもない。めぐみは愛想笑いで返す。

 めぐみと北は1年生のころ同じクラスだった。ただその時よりも彼の背が20センチ以上伸びていて、久々に面と向かうと中々な迫力がある少年に変わっていた。ただ今は、彼の方から話しかけられて都合が良かった。


「何か用? もう誰もいないんだけど」

「船島君って帰っちゃったのかな? 部室にも来ないから」


 それを聞いた北は軽快に笑う。


「なるほどぉ。心配で来ちゃったってことね」

「だ、誰もそんなこと言ってないよ」

「あはは。良いの良いの。でも俺も知らないなぁ」


 北は右斜め上に視線をやって考える。やがて振り返って、窓際に取り残された女子に問いかけた。


「なぁ、蛍のこと見た?」


 めぐみも合法的に教室を覗き込む。窓際に立っている少女は、夕焼けに反射した茶髪をしていた。窓を開け放っているからか、風が吹くとその匂いが彼女のもとまで届いた。自分が使っているシャンプーの方が良い匂いがした。


「先輩なら見たよ。黒澤先輩と歩いてた」

「え、マジかよ。どこ行ったか知ってる?」

「家庭科室だって。ウチと同じクラスの男子が嘆いてた」

「アイツもマジですみに置けねえな……」


 先輩、ということは窓際の彼女は1年生だろう。北にタメ口で話すということは、つまりそういうことだ。

 だが、めぐみはそんなことどうでも良かった。北に話しかけられた時とは違った意味で胸が痛む。全身に血液が行き届いていないような、めまいに近い何かが視界をゆがませた。


「ということだけど……大丈夫?」

「何が?」

「あ、いやなんでも……」


 北は笑って誤魔化す。喉から出かかった言葉を必死に飲み込んで。

 めぐみの足は、おのずと家庭科室に向かう。

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