第5話
放課後。いつもなら文芸部の部室に向かう足は、滅多に来ない家庭科室を目指して地面を蹴っていた。
その隣には学年1の秀才で美少女、黒澤芙実が
「なあ」
「ん?」
「なんかすげえ見られてない?」
「そう? 気のせい気のせい!」
だが当の本人は全く気にしていない。昔から視線を集めることには慣れていた。
この場合、最も
「もっと目立たないように歩いたらどうだ?」
「え、どういうこと?」
「オーラをかき消すとか」
「私をなんだと思ってるの?」
「めっちゃモテる子」
「それはどうもー」
芙実から言わせれば、周りが勝手に視線を寄越してくるだけだ。
別に自信過剰なわけではない。だが、人とは違うと思わざるを得ないのは事実としてある。現に勉強も出来て、人の好意を集めるだけのルックスがある。その一方で高校生ながら謙虚さを保とうとする理性も働いている。ただ深層心理に眠る本音は、彼女自身も理解していなかった。
「でもさ、マジで締められるんじゃないかって目で見られるんだけど。隣歩いてるだけだぞ?」
蛍は冗談抜きで恐怖心を抱いていた。クラスで話す分には何も感じなかったが、教室の一歩外に出ると話は別。気心知れたクラスメイトはおらず、黒澤芙実を狙うハイエナの集団に放り込まれた気分になる。
だが芙実は快活に笑ってみせた。
「大丈夫大丈夫。本当にそんなことしたら私が――」
つい気分が良くなった。自身より20センチほど背の高い男が、まるで小動物のように両肩をすくめて震えている。無論本当に震えているわけではないが、芙実から見てそのギャップが心の底から可愛らしく思えた。
だから、いま喉から出かけたこの言葉は、あくまでも彼を守るための発言でしかない。驚くほどスラスラと言葉を紡ごうとしていた。しかし、それは藤高で積み上げてきた黒澤芙実というイメージを一撃で崩しかねないものであった。ソレに気づいたのは、主語を言い切った後だった。
「私が、なんだよ」
「えっ!?」
ギリギリのところで理性が働いた。ただ安心している場合ではない。そのせいで思考を紡ぎ直す時間が発生。蛍から見て何かを言いかけたまま思考が止まっているようにしか見えなかった。
だから言葉を促す。至って自然な流れである。芙実は慌てて言い換える。
「えっとその……や、優しく注意してあげるから」
「マジで頼んだ。それが一番効果的だわ」
「う、うん! 任せといてよ!」
「なんで嬉しそうなんだ」
うまく誤魔化せた安堵感からか、思わず言葉のトーンが上がる。案の定、蛍からそれをツッコまれるが、それも笑って誤魔化した。
蛍から見れば何も違和感はなかった。けれど、妙に自信あり
「そういや今日って何作るんだ?」
「本当に簡単な料理しか作れないよ。あんまり期待しないでね」
「まあでも黒澤のことだし、なんだかんだ上手くやるんだろ?」
「う、ハードル上げるなぁー」
蛍はそんな会話をしながら、1年生のころを思い出していた。
今でこそ芙実は学年トップの秀才であるが、入学して最初の期末テストは蛍の方が順位が上だった。そのせいか、入学当時の黒澤芙実のことを覚えている生徒は思いのほか少なかった。
彼女が頭角を現し始めたのは、それからだった。必死に誰よりも勉強して、目に見えて成績を伸ばした。成績が良くなると同時に、彼女も自信を持つようになった。その結果、内面に沈んでいたポテンシャルが一気に開花した。それが、黒澤芙実という人間である。
家庭科室の前に着くと、教室の明かりが点いていないことに気づいた。蛍が彼女に視線をやると、職員室から借りてきた鍵でドアを開けている。
「今日って部活じゃないのか?」
「ん? 今日は休みだよ」
「良いの? 休みなのに」
「良いの良いの。自主練にもなるじゃん」
その言葉に嘘はない。家庭科室に入ることもすっかり慣れた様子だ。蛍は教室の独特な匂いを感じながら、彼女の後に続いた。
「黒澤ってすげえよな」
「えっ、なに急に」
準備室から食器などを取り出してきた芙実は、蛍の唐突な褒め言葉につい口角が上がった。そんな素振りすら見せなかった彼の言葉。芙実は道具をいったん置いて、適当な席に座った蛍に視線を送る。
「マジで努力家じゃん。ほんとすげえよ」
「ちょ、ちょっとやめてよ……。別に普通だって」
「1年の頃から勉強してるの知ってるし。なんか納得したわ」
「も、もう……」
蛍は
彼女は彼女で、熱すら感じてしまう彼の目を見ることが出来なかった。思えば、そんな目で見られたのはいつ以来だろう――。薄っぺらく、その場の感情だけで自身に愛を伝えてくる男たち。それを知っているから、照れ笑いをするしかなかった。
「食器洗いぐらい手伝うよ」
あまりにも自然な流れで立ち上がる蛍に、芙実は両手を前に差し出して制止する。
「良いから良いから! ほら、本でも読んで待っててよ。昼から何も食べてないんだし」
「手荒れとか大変じゃないか?」
「
「……そうか?」
蛍は腑に落ちていない様子だが、このまま押し通すのは逆に迷惑だと判断。素直に芙実の言うことを聞くことにした。再び腰を落として、カバンから読みかけのラノベを取り出す。買ったばかりだというのに、
「船島くんってそういうの、誰から習ったの?」
今度は芙実が問いかける。食器やキッチングッズを水道で洗っているからか、彼女の声は先ほどより少し聞こえづらくなっている。
「そういうのって、何のことだよ」
蛍が少し大きめな声で返答すると、両手にまとわりついた水気を払いながら視線を送る。
「手荒れがどうとかってこと。男の子が普通そんなこと言わないよ」
「別に誰にも習ってないって」
「さては近くに仲良しの女の子がいるなぁ?」
「……居たっけなぁ」
芙実から見ても、船島蛍という人間は女子から人気があった。ただ告白したとかそういう話ではなく、あくまでも友人として。良いヤツ止まりという印象だった。
嘘はつけないタイプであることも、1年の頃から見てきているから把握済み。とぼけているように聞こえる返答だが、芙実は素直に受け取った。
「そういえば、船島くんこそ部活大丈夫だった?」
「あぁ全然平気。運動部みたいな決まった練習はないし、割と自由なんだよね」
「そうなんだ」
蛍は基本的に顔を出しているが、基本的には出欠を取ることもしない。行きたいときに参加して、自分のペースで活動する。それが藤ノ宮高校の文芸部。ただそれも部員が真面目に活動しているから許されるだけだ。
(そういや、栗野はちゃんと食べかな)
ふと頭に浮かんだ昼間の光景。普段は自身に中々厳しい言葉を投げかける彼女が、あの瞬間だけは素直に感謝を告げてきた。言い過ぎかもしれないが、部活中の彼女とは全くの別人のように思えたのだ。
――そんな彼の疑問を知るよしもない。この二人だけの光景を見つめる瞳があった。
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