第4話


 5時限目の体育が終わり、着替えを終えた女子たちが教室に戻ってくる。明らかに授業前と比べて甘い匂いが充満するが、蛍はそんなことを気にする余裕はなかった。


(あー腹減った……何か買えば良かった……)


 そそくさと着替え終わった彼は、何もする気力が起きず机に突っ伏していた。それもそう。めぐみにパンを譲って何も食べておらず、その体で体育に臨んだのだ。カラダは今まさに栄養を求めている。

 めぐみにパンを譲ったこと自体は全く後悔していなかった。6時限目までに購買へ行くという手もあるが、今の彼にそんな元気はない。午前中に普段あまり飲まない炭酸飲料を買っていたのが不幸中の幸いで、ほんの少しでも空腹感を誤魔化そうと考えていた。


「船島くん、大丈夫?」

「ん?」


 蛍は机に突っ伏していた顔を上げる。声のする方を見ると、隣の席の黒澤芙実くろさわふみが彼の顔を覗き込んでいた。


「黒澤か。大丈夫だよ」

「そう? なんか疲れてない?」

「ん、まあ」


 蛍は短く刈り上げた頭を掻く。


「授業中に腹鳴ると思うから、笑わないでくれると嬉しい」

「なんだ。お腹空いてるだけか」

「おいおい……これでも結構しんどいんだぞ」

「分かってるよー」


 芙実はクラスで、というより学年で一番成績が良かった。藤高を代表する秀才である。といっても才能にモノを言わせた天才タイプではなく、1年生のころから徐々に成績を伸ばし、3学期には今の地位まで上り詰めた。

 見た目も長く伸びた黒髪が特長で、キリッとした瞳にハートを打ち抜かれた男子も少なくない。そして撃沈した男子も数知れず。


「ほら、私って保健委員だし」

「心配してくれたんだな。ありがと」

「具合悪いって言われたら、保健室に連れていけるじゃん。私もサボれるし」

「俺の感謝を返せ」

「あはは。冗談だよ」


 ただし、高嶺の花というわけではなかった。優等生でありながら、こうして授業をサボろうとするし、男女分けへだてなく仲良くできる明快な性格。クラスの人気者として一目置かれるのもうなずける。


「ってか、なんでそんなにお腹空いてるの?」

「昼飯食ってないからな」

「え、どうして?」


 芙実の疑問はもっともだ。誰もが聞いても同じ事を聞き返すだろう。

 蛍は少し考えた。ここで正直に『同じ文芸部員に譲った』と言っても何ら問題はない。むしろ隠す必要もないし、隠す方が不自然だ。

 けれど、彼は普段のめぐみの様子を知らなかった。知っているのは文芸部の部室に居るときだけの自分で、もしこのことが彼女の耳に入ったことを想像する。あの毒舌で嫌味を言われることは逃れられない。


「色々あってさ。部室で本を読むことを優先しただけ」

「ふーん」


 納得したのかしていないのか。目を細めて自身を見つめる芙実の態度は、何とも判断が難しいものだった。

 蛍からすれば大した話でもない。ただ同級生に譲っただけ。けれど、芙実は誤魔化された気がしてならなかった。彼女の感性的に、ここで「色々あった」と言うこともないだろうと。ただ、それを今この場では追及はしなかった。


「何か持ってたりする?」

「あいにく、お菓子は切らせてて」

「残念だ……」


 蛍は分かりやすくガックリとうなだれた。可哀想な姿ではあったが、その様子がおかしくて芙実はクスクス笑う。蛍は「笑い事じゃねーよ」と力なく訴える。さっきまで上げていた顔はまた机と向き合っている。

 そんな様子を見て、芙実は少し考えた。普通に考えて、高校生男子が昼食を食べないのは結構な異常事態なのではないか、と。クラスの男子を見渡してみても、誰一人としてそんなことをする人間はいない。


「ねね、放課後って暇?」

「部活あるけど、まぁ時間はあるな」


 芙実は蛍が文芸部の所属であることは知っている。具体的に何をしているかまでは把握していないが、運動部よりも融通が効くという先入観があった。


「私に協力してみない?」

「……協力?」

「そう。私の実験に!」


 蛍は首をかしげる。彼女の言葉の意味が理解できなかった。

 実験と聞けば化学的な何かを思い浮かべるが、芙実がそのような部活に所属しているとは聞いたことがない。


「どういうこと?」

「私、今月からクッキング部に入ったんだよね。今まさに料理の練習してて」

「ほうほう」

「で、試食をお願いできないかなって」


 芙実の周辺に居た男子たちが静かに騒ぎ出す。聞き耳を立てているのがバレないように、あくまでも平静を装っている。

 男子たちの注目の的である黒澤芙実の手料理である。藤高に通う男子生徒であれば、どんなに満腹でも口に運びたい。蛍も男である。あの芙実が作る料理に興味がないはずもない。


「俺で良いのか?」

「だってタイミング良いし。お腹空いてる方が美味しいって言ってもらえるかなって」

「あぁなるほど……」


 繰り返しになるが、蛍も男である。芙実がそういう誘いをしてきた意味を少し勘ぐってしまう。無論、頭では「深い意味はない」と分かっていても、変な期待をしてしまうのが男子高校生である。


「というか、黒澤ってクッキング部だったんだな。知らなかったわ」

「まあね。帰宅部って退屈だったし。料理も学べて一石二鳥だもん」

「その知的好奇心は見習いたいよ」


 純粋な褒め言葉だった。2年続けて同じクラスになった彼だからこそ、1年前の芙実を知っている。まるで何かに取りかれたように勉強し、そして今の地位を確かなものにした。

 1年のころには無かった余裕みたいなものが確かにあった。それは蛍から見ても明らかで、確実にクラスメイトと話す機会は増えている。


「船島くんも変わらないと思うな」


 そんなことを考えていると、芙実がおもむろに声を掛けた。


「全然違うって」

「1年のころからずっと本読んでるじゃん。人に流されないで」

「んまあ、好きだし」

「自分を貫き通すのって、すごく難しいんだよ」

「……実体験?」

「あはは」


 蛍の問いかけには笑って答えた。回答になっていない返事ではあったが、彼は深く追及することでもないと判断した。


「とりあえず、どこに行けば良い?」

「家庭科室。ホームルーム終わったら一緒に行こうよ」

「OK」


 何を作ってくれるのだろうか。黒澤芙実が料理をするイメージが全くないせいか、蛍の知的好奇心が騒ぎ出す。気づけば、さっきまでの空腹感はなくなっていた。

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