「Grrrrrr――!!」

「わ、飛竜ワイバーン!?」


 突如として現われた凍れる息を吐く飛竜、凍飛竜フロストワイバーン。皮膜の翼を羽ばたかせるその威容を前にして、フリーラが戦慄する。

 それは雪這いスノーストーカーと対峙した時以上の緊張だった。


 飛竜。つまり、竜の一種。

 竜というのは人々にとって特別な魔物だ。良き意味でも、悪い意味でも。


 古代、人は万年の生きる竜に助けられ、文明を与えられたという。

 神が加護を授けたのとは別に、竜は直接人間の手助けをした。

 火を知り、武器を造り、そして抗い争うことを覚えたのは竜のおかげだと伝えられている。

 現在の竜神信仰の元となっている逸話だ。

 人を見守りスキルを与える神々の一柱として数えられることもあり、その信仰は根強い。


 一方で、凶悪かつ特に強力な魔物としても知られている。

 駆け出しは愚か、場数を踏んだ中堅どころの冒険者でも敵わない。

 並大抵の剣を弾く硬い鱗。紙のように城壁を引き裂く鋭い牙と爪。種類によっては空を飛び、ブレスを吐く。

 肉を好み家畜を攫い、生きた年数によっては宝物に執着を覚える程に知能が高く、邪悪で生き物をいたぶることすらあるという。

 人々にとっては恐怖の象徴だ。

 ゆえに竜を狩る存在は《竜殺しドラゴンスレイヤー》と呼ばれ、英雄として崇められた。


「老人たちの竜神信仰もあながち間違いではなかったワケだ。……竜は竜でも、"亜竜"だがな」


 飛竜ワイバーンはその竜の一種で、亜竜と呼ばれる魔物だ。

 亜竜は竜に近い生態を持ち、竜に準ずる実力を持つ魔物を呼び表わす分類である。

 先述の竜のように年月で高い知能を得たりはしないが、その鱗や翼は紛れも無く竜に匹敵するような魔物。それが亜竜だ。

 そんな存在が霊山にいれば、なるほど、かつてこの山に竜が住んでいたという話にも説得力が出る。


「言ってる場合ですかぁ!? に、逃げないと……」

「でもここで逃げたら、村に被害が出るかも」


 飛竜から一切目を逸らさず、ピルカは言った。


「飛竜の行動範囲はとんでもなく広い。それこそコイツは、遠くの山からいくつもの尾根を越えてやってきたのかも」

「だな。そしてこの山に目を付けた」

「だったら、村にまで降りてくるのは容易い」


 山を越える竜が麓の村を目指すことなど、ワケはない。


「……村の安全のために雪這いスノーストーカーを倒しに来たのに、それを越える脅威ワイバーンを見逃しちゃ、本末転倒だよ」

「じゃ、じゃあ」

「ここで倒すしかない」


 断言し、ピルカは剣を抜いた。


「……それもそうだな」

「お師匠!」

「勘違いするな。悲壮な決意を固めたワケじゃない」


 アルドもまた剣を手に飛竜へと立ち向かう。その隻眼に浮かんでいたのは諦めでも、ましてや勇気でもなかった。

 平然とした、特に何の感情も浮かんでいない瞳だった。


「駆除できるなら、駆除した方がいいというだけだ」

「……っ!」


 雪這いスノーストーカーと何も変わらない。

 ほどよい緊張。平静な息。眼差しは冷たく、筋肉に凝りはない。

 飛竜を前にして戦意を昂ぶらせるピルカとは違う。

 戦うための平常。

 ただ、斬り殺す――つまりアルドにとって、今の状況は危機でも何でも無いということ。


「来るぞ」

「Gaaaa――!!」


 尾根へと着地した飛竜は吠え猛る。人間の本能へ訴えかけるような大音声は、フリーラの身を竦ませた。


「ひっ!」

「きゃんっ!」


 視界の端でレールもまた伏せている。犬であっても、亜竜は恐ろしいものらしい。


「やあぁぁぁーー!!」


 真っ先に切り込んだのはピルカだった。裂帛の気合いと共に果敢に飛び込んでいく。

 凍飛竜は、迎撃のために長い首を巡らせた。

 漏れる、呼気。


「――ブレスだ!」


 アルドの警告。ピルカは迷わず横に飛んだ。

 次の瞬間、雪原を一条の白が撫でた。


「! これがブレス……」


 竜の代名詞。伝説に謳われるそれを、フリーラは始めて目撃した。

 凄まじい威力だ。積雪が抉られている。しかもそれは万物を溶かす炎というワケではない。凍飛竜フロストワイバーンの通名通り、同じ氷、凍気だ。だというのに、この威力。

 受ければ凍り付くだけではない。その身を勢いだけで失い兼ねない。


 そんなブレスをすれ違うように躱したピルカは、それでもまったく怯んでいなかった。


「ハァッ!」


 ブレスを避けたことで生まれた隙。ピルカは長い首目掛けて握った剣を叩き込んだ。銀刃が水色をした鱗を切り裂き、断片が雪の上に散る。

 が、血が噴き出ることはなかった。


「っ、やっぱ硬い!」

「Gyaaaaa――!!」


 首を狙われたことで激怒した飛竜が再び咆哮し、ピルカを噛み殺さんと牙を剥く。しかしその程度の反撃はピルカにも読めていた。


「へっ、そんなの当たらな――いっ!?」


 難なく躱そうとしたピルカだったが、その姿が一段低くなる。

 踏み出した足が、雪で滑ったからだ。


「あっ、わっ……!」

「ピルカ!」


 その事故と飛竜の牙が迫るのを見て、フリーラが悲鳴を上げる。鋭い歯列は雪這いスノーストーカーの死体を量産したように――突き立てられた。


 ただし、虚空に。


「えっ、あ……」

「……昔から足元には気をつけるよう言っているだろう」


 凄惨な光景を想像したフリーラの前でピルカの身体を引き寄せたのは、アルドだった。首根っこを引っ掴み、川に飛び込もうとした子どもを叱るようにぶら下げている。


「そういうそそっかしいところ、どうにも直らなかったな」

「うぅ……ごめんなさい」

「ま、助けなくても受けられそうだったのは褒めてやるが」


 反省した様子のピルカを降ろし、アルドは頷く。

 その姿はまるきり、ただの父親だった。


「GuAaaaaa――!!」


 自分を無視しているのか。まるでそう抗議するかのように飛竜は吠える。


「ん。ああ、そうだな。取り敢えず、叱るのはお前を倒した後にしよう」

「お師匠!」

「フリーラ、お前は無理なく斬れそうな時にだけ手を出せ。それ以外はレールを守ってろ。ピルカ、行けるな?」

「うんっ! もうしくったりしないよ!」

「よし」


 アルドはやはり微塵も息を乱すことなく、竜の姿を隻眼で静かに見据えて言った。


「竜殺しだ」

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