おかえり

 鼻をくすぐる懐かしい匂いを感じて、ピルカは薄らと目を開けた。


「ん……」


 重い瞼をゆっくりと開き、起きる。

 視界に映るのは知らない天井……ではなく、あまりに見覚えのあるものだった。

 生まれてからずっと過ごしてきた……自分の部屋の。


「ここ、は」


 ぼんやりとした頭のままベッドから立ち上がる。

 いつの間にか薄汚れていた髪が白く戻っていることにも、自分が家に置いてきたハズの寝間着に着替えていることすら気付かない。

 ただ、誘われるがままに自室の扉を開ける。


 リビング。そして併設された竈。

 匂いの発生源はその上に置かれた鍋のようだった。

 ……そして。


「……お、起きたか」


 その鍋を掻き混ぜる、一人の男がいた。

 歳の頃は壮年。髪は黒だが、一部分に白髪が交ざっている。

 顔には皺が刻まれているが、歳の頃を考えればまだ全然少ない。だが、記憶よりは僅かに増えたか。

 そしてそこに浮かんだ双眸の内、片方は革の眼帯で覆われて見えない。

 しかし残ったそのもう片方が、ピルカはどうしようもなく好きだった。

 水底のように青い瞳に浮かんだ、海に負けないくらいに深い優しさが。


「お……」


 声が出た。まるで自分の声じゃないみたいに掠れている。

 それでもその先を止めることはできない。

 その名を呼ぶ。


「おとう……さん」

「おう。……食うか?」


 そう訊いてくる。

 それがあまりにいつも通りで、思わずピルカはこくんと頷いてしまった。

 「うん。すぐ出来るから、座って待ってろ」それも普段の台詞で、ピルカは大人しくテーブルについた。

 それもいつもの指定席だった。テーブルの表面にかんな・・・がかけられて綺麗になっていたり、記憶よりも椅子が一つ増えているが、大体は変わらない。


 どこか現実感がなくて、ぽやーっとしながら出来上がるのを待った。

 そして言葉通り、さして待つことなくアルドはやってくる。

 両手の中に湯気を浮かべる木の皿を持ちながら。


「急のことだったから、簡単な物だが許してくれ」


 そう言うアルドの言う通り、皿の中に盛られていたのは難しい行程のある料理ではない。

 単純な煮込み料理だ。野菜と肉を一緒に水の中に入れて、塩や香辛料を振りかけて火を通す。ヒーカ村ではどこでも作られているような料理で、郷土料理のカテゴリに入るのだろう。しかしそれは故郷の誇りがあるとかでもなく、単純に簡単に作れるからに過ぎない。

 しかも香辛料を入れたのが遅かったのか、スープの色も薄かった。


「朝食のあまりだが、勘弁してくれよ。本当はこれを何度か温めながら一日を凌ぐつもりだったんだから。おかげで量が足りたのはよかったけどな」


 そう言って苦笑するアルドだったが、ピルカはその皿の中から目が離せない。

 何故なら、それはずっと求めてきた――。


「食う前にお祈りだろ」

「あ……うん」


 言われて思い出す。それもまた、記憶をくすぐる。

 昔は意地汚かった自分は、よくそうやってすぐ食べようとするのを宥められていたっけ。

 二人で向かい合い、手を祈りの形に組む。


「「……霊山に住まう聖なるものたちよ。いつも我らを見守り給い、感謝します」」


 その聖句も、久しぶりだ。

 冒険者としての食事は、ほとんど一人だったから。


 祈り終わって目を開けると、そこには食べるよう手で促す父の姿が。

 おそるおそるといった風に匙を手に取り、中身を掬う。

 充分に火の通った芋がほろりと崩れる。気にせず、口へ。

 途端、口の中に熱と味が広がる。


「………」


 決して繊細ではない。むしろ大雑把だろう。怠け心をはみ出さない限りの工夫しか見られない。

 元々、自炊の時に拘ることはしないのがアルドだ。外で美味いものを食べるのは好きだが、自分で作るときは手早いもので済ませたがるのが父だった。

 それでも自分だけではなく娘にも振る舞うものだからと、ちょっとずつ香辛料の入れ方を覚えたのがこの煮込み料理だ。


 美味しい。温かい。

 懐かしい、懐かしい味だった。


「……あ」


 視界が滲む。

 ポロポロと、頬を伝い熱いものが流れ落ちていく。


「ずっと……ずっと、これが食べたかった」


 いつからだろう。

 食べ物に、味を感じなくなったのは。


「家を出た、あの日から……もう、二度と食べられないんじゃないかと覚悟して……」


 旅立ったあの日。

 冒険者として身を立てようとするからには、家に戻れないことだって覚悟していた。命をやり取りするのだ。当然のこと。

 それでも家を出てから長く過ごす度に、その想いは強くなっていった。


「でもいつか。いつかってずっと……」


 ガリオたちが酒宴を開いている中、一人で黙々と保存食を囓っていた時も。

 宿から飛び出してここに帰って来るまでに、道なき道を突っ切った時も。

 まずいとも、侘しいとも思わなかった。食べるという行為はただの栄養補給。それ以上ではないと、いつの間にかそう考えるようになっていた。

 楽だし金もかからないからそれでいい。

 そう思いつつも、いつから食べるのが楽しくなくなったのか、思い出せずにいた。


 今、分かった。

 心の中では、ずっとこれを求めていたからだ。

 懐かしき、父の味を。


「帰って……」


 温かさが胸に染み入って、郷愁に飢えていた心が満たされていく。カチコチの氷がお湯で溶けていくように、強ばっていたものがほぐれていった。

 凍り付いて、現実を全て否定していた心が氷解し、ようやく夢じゃないと受け入れられるようになる。

 やっと、実感が湧いた。


「帰って、来れたんだぁ……」


 堰を切ったように涙を流すピルカへと、アルドは優しく微笑んだ。

 それは紛れも無く、父親としての顔だった。


「ああ……おかえり、ピルカ」

「……うんっ、お父さん!」


 告げたかった言葉。待ち望んだ言葉。

 決して、描いていた形ではなかったが。

 それでもそれを告げたことで、二人は親子へと戻った。

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