標識の手前、もしくは途中
タクシー運転手は空き地に寝込んでいる客を見つけ、車を止めた。大嵐がくる前だというのに傘の一本も持たず気持ちよさげにうとうとしているのが目に留まった原因か。
もう雨が降りだしそうなほどの黒い雲、運転手は一応声を掛けることにした。
「寝ている人。ねぇ、ねぇ」
「………………」
「起きない」
その後も何度か声を掛けるもその人は一向に起きない。もしや新ているのでは思い始め、心臓あたりに手をやろうとしたところで大粒の雨が手の甲に当たった。
駅や会社の前を巡回すれば帰り際の客を乗せられるかもしれない。商売機会をみすみす逃すわけにはいかず、車から傘を取りだして傍に置いた。
「ありがとうございます」
「えっ」
車に乗り込んだ運転手は後部座席に乗っていた人に驚いた。ついさっきまで起きる気配がなかったというに、まして運転手が車に乗る人を見逃すはずがない。
「傘はお返しします。僕には必要ない」
傘が座席に置かれる。
「よくこの道は通るのですか?」
「まぁええ。近道なんで、この先駅があるでしょう。会社も多いし」
大通りは混む時間帯、人は多いが回転率が悪い。ならば横道に曲がりやすい通りを選ぶ。後部座席に乗る人は何も言わずに考え込んだ。
「……やっぱり、ここで待とう」
「あっ、おりますか?お待ちを」
運転手は扉を開けようとしたが故障で動かない。何度か触って動かないのを確実にすると諦めて体を回した。
「すみませんお客さん……」
人は居なかった。あるのは傘一本だけである。
雨がフロントガラスに撃ちつけ、エンジン音もなくなりざあざあと雨音だけが木霊する。背筋が凍ったような震えが運転手を襲い、恐る恐るミラーを確認した。
「大丈夫、降りれますよ」
運転手は言葉が出なかった。
「じゃぁ最後に、車を引き返してください。そっちは一方通行ですよ」
瞬きをすると人は消え、急いで左右を見渡すと空き地にその人は座っている。天を見上げて雨に撃たれつつ、それを楽しんでいるように笑みを浮かべている。
いよいよ足が竦み始めた運転手はバックにギアを入れなおして急速に後退し始めた。今すぐにこの場を立ち去りたかった。立ち去らなければ何かに呑まれそうだった。
暫く、バックミラーも確認せずにエンジンを噴かしていると車はゆっくりと前進していた。小さな交差点の手前、運転手は一方通行の標識をみて右折した。
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