猫は産まれたく産まれたいと思ったことはない。静かな母親のお腹から抜け出し、世界を見たいと思ったこともない。


「親猫が見捨てた仔猫なんだからすぐ死ぬ。拾わないで」


「母さん、それじゃあ可哀想すぎる。僕がどうにか大人になるまで育てるよ」


 声も形も色合いも、猫は初めて見るニンゲンという生き物に疑念を抱いていた。殺されてしまう恐怖と救ってくれるかもしれない希望、入り混じる濁ったものは疑惑となって音になった。


「にゃ」


「大丈夫、大丈夫」


 冷たい手が猫を覆った。


「僕がなんとかする」


 優しい歌だった、子守唄だったのかもしれない。猫にとってそれが世界で一番暖かい時間といっても過言ではない。小汚い段ボールに詰め込まれ、涙ながらに捨て置かれた憂慮を割り切ることもできず小さな穴から除くしかなかった運命を、たった一人のニンゲンが持ち上げ見上げてくれた。


「どうだろう、リン。君の名前は、リン」


 ダンボールよりは広いものの、世界よりは小さい部屋で主人はそう呟いた。


「リン……リン」


 可愛げのない響きにそっぽ向いていた猫であったが、次第に身体の中で共鳴するものがあった。気に入っていると気付いたのはもう身体が動いていた。


「ありがとう。リン」


 冷たい風ではなく、幸福に包まれた。


 この日常がいくらでも続けばいい。猫が死ぬ日まで、ずっとずっと。


 思えば長く、誓えば短く。

 猫はまた、捨てられた。


「邪魔だな、捨てるか」


「あの子のお気に入りよ」


「君も毛嫌いしてたじゃないか」


「ええ、ただ捨てると心苦しいってだけ」


「なら譲るとしよう」


 よく分からない暖かいニンゲンは冷たい二人のニンゲン曰く遠くの大地や空に昇っていたらしい。猫は孤独に鼠取りをしながら生きながらえていると、冷たい風を従える二人が全く見知らぬニンゲンに猫を突き出した。


「お預かりします」


「一生、預かれ」


「喜んでお引き取りしましょう」


 何かよく分からないことを呟くニンゲンで金がなんだのカネがなんなの、彼の周りのように発狂はしていなくとも怪しい光に取り憑かれていた。


「にゃあ」


 たまに鳴いてあげるとその光は一瞬で胡散し、暖かい手で頭を撫でてくれる。


 猫は積極的に鳴くようになった。


「いこう」


 ニンゲンは胸に飛びついてこいと表現し、暖かさを求めていた猫は当然飛び込んだ。しかし、それは罠だったと言わざるを得ない。


「ルイについていくよ。僕はね、きっと何かあると思うんだ」


 なんとなく、今のこのニンゲンは光って見えた。


「にゃあ」


 寂しがり屋の猫には離れて留守を守ることは選択肢になかった。世界は広くとも、猫は暖かいニンゲンしか好きではないのだから。

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