帰省

 俺が二十五になって仕事がようやく軌道に乗ったころ、里帰りしないのかと同僚に言われた。毎年毎年、冬のこの時期は納品やら施設調整とかで暇が忙殺されてたもんだし、全くと言っていいほど親の顔も声も聞けてなかった。久しぶりに実家帰るかと重い腰をあげたのは、思いのほか寂しかったせいかもしれない。


 年が跨ぐ前、家について俺は一息つかないといけなかった。除雪された道がもう白くなって歩き辛かったからなんだが、七年前は普通に歩けていたのに雪に不慣れになった自分に驚いた。都会に順応してしまった自分がいることに一抹の悲しさを感じてしまったんだ。


 鍵のかかっていない玄関は何も変わっていない。達磨の置物、先祖の写真、象牙の靴ベラ、俺がこの家を発ったあの時間から全く動いていなかった。涙脆くなかったはずの俺は自分でも分かるほど目が腫れていった。木の匂いがほんのりと香る。鉄じゃない、汗臭い靴の匂いでもない。


 居間のテレビを見てる父になんと声を掛けたのか、たぶん、やぁ、俺はそんな口上手じゃなかったし帰ってきた実感に押されて考えも纏まらなかった。声をかけた途端に母親が年越しうどんを持って居間に入ってきて、お帰り、と。一言、たった一言だけだったけど、俺には重すぎる一言だった。父は柄でもない演歌テレビをじっと見つめていた。


 不思議な感覚だった。つい昨日までここにいたみたいな、今日の朝出かけて帰ってきたみたいな感覚、七年の外出もここじゃ一日らしい。母は三つ分のうどんをこたつの上において、手を洗っておいで、あとうがい忘れないで、とも言った。俺は手洗いうがいを知らない人間だったわけじゃない、母の口癖だ。俺が帰ってきたらまず第一にそれを言い、キッチンやら居間やらに消えていくのが日常だ。おかげで俺は流行病に掛からなかったし、汚い手でワンルームを汚すこともなかった。


 手洗い場の水垢に懐かしさを覚えつつ、俺は上着を脱いでこたつに滑り込んだ。暖かい空気が心の芯まで温めて、大きなため息を吐いた。幸せなため息だった。


 父の足に俺の足が当たって漸く、ヨレヨレの服を着る頑固な父は振り向いた。なんだお前、断りもなく、まぁいいだろう、今日ぐらいは。とでも言ってそうな傲慢な目線だ。だけどそこには怖さを感じない。あるのは歳をとった鬼の子供を見る愛おしさだ。照れ隠しなのか、父は納屋のことを口にした。


「おめぇ帰ってんだけ、物入れぐらい掃除してこい。あぁ母さん。酒をもってこい、前に買った、冷蔵庫の奥にあるやつだ」


「はいはい、七年物の日本酒だけ」


 母は酒を飲まなかったが、こたつの上にはお猪口が三つ並んだ。

 父と俺は酒を、母は麦茶を。

 七年前はできなかったことをするために、家族をずっと待っていたらしい。

 俺は薄っぺらい都会暮らし、父は何もない田舎暮らし、母は愚痴に文句を。

 暗くて眠くてベットに入るだった時間を、俺は初めて、誰かと話す夜を好きだと思った。

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