第15話 出発


 粉をはたいて、口紅をひく。瞼にもきらきらと光るものが塗られて、生まれて初めてお化粧をした私は、まるで別人みたいだった。記憶に残るお母様と、少しだけ似ている気がする。それが嬉しくて、もうすこし鏡を見てきたかったけれど、お手伝いさんに手を引かれてできなかった。いつもの着物ではなく、この辺りでは誰もきていない洋服は、妙に軽くて落ち着かない。紫色で、ところどころに蝶の刺繍が施されているこれは、先方からの贈り物なのだという。

 お父様から縁談の話を聞かされたのが昨日のことで、蔵から出してもらえたと思えばもう、身支度が始まった。あまりに急すぎる、と思うけれど、きっと、ずっと前から決まっていたことを、私が前日に知らされただけなのだろう。

 準備を終えて玄関へ向かい、慣れない靴に足を押し込んでいると、後ろからばたばたと慌ただしい足音が聞こえてきた。


「おい、お前」


 弾ませた息を落ち着かせる間もなく、その人は私の肩をつかむと半ば無理矢理に振り向かせる。光に透けるような金髪が、秋に成る穂のようできれいだ。ずっとそう思っていなかったのに、ついに言えなかった。


「おはようございます、お兄様」

「なんだこれは、お前は知っていたのか?」

「昨日、お父様から聞きました」

「昨日…」


 お兄様が眉を顰める。この様子だと、お兄様は私の縁談の話を今朝目を覚ますまで知らなかったのだろう。


「縁談なんて、お前には早すぎる」

「ですから、適齢期になるまであちらのお屋敷で面倒を見てもらうのです」

「適齢期…?」

「子が産める、という意味です」

「…なんだその、気色が悪い話は…!」


 …ああ、よかった、

 不快そうにするお兄様の顔を見て、私は不思議と安心していた。


「来い。一緒に父様のところへ行くぞ。話をすればきっと、こんなのはおかしいと気がつくはずだ」

「お兄様」

「だいたい素直に受け入れているお前もお前だ。相手が誰か知っているのか? 隣町の屋敷は確かに権力者で、繋がりを持てば後々有利かもしれないが、その一人息子は四十を越えた男だ。そんなやつがお前のような子供との縁談を望むなんて、その時点で」

「ですが、お兄様。私には才能がありません」


 いいながら、肩に乗せられた手を静かに払う。まるく開かれたお兄様の瞳には、やけに冷静な私の顔だけが映っていた。


「まじない師の家系に生まれながら、何の才能もなく生きてきた私が、この家や後々跡を継がれるお兄様のためにできることは、自らの身体を使うことだけなのです」

「…そんな、」

「お嬢様、そろそろ」


 玄関の戸を開いた向こう、お屋敷の前には、生まれて初めて乗る車が、煙を上げながら待機している。あれも、先方が手配した物のようだ。お手伝いさんに急かされて、私は振り返ると、お兄様に頭を下げる。


「さようなら、お兄様。……まだお母様がいたころ。お父様や奥様から近づいてはいけないと言われていたでしょうに、こっそり私たちがいる離れへやってきては、私と遊んでくださったこと、忘れません。その思い出があったから、私、痛いことや苦しいことをされても、お兄様のことを嫌いになりきれませんでした。…どうか、お元気で」


 自分勝手に言い切ると、お手伝いさんに促されるままお屋敷を出る。車に乗ってから一度だけ振り返ると、玄関にはまだ、お兄様が立っていた。そして、お屋敷から私の姿が見えなくなるまでずっと、その場に立ち尽くしていた。


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