第14話 夢が呼ぶ
格子から差し込む月光が、部屋の隅で丸まって眠るリクの小さな身体を照らしている。
ごめんなさいお嬢様、どうか恨まないでくださいませ。そんな言葉を何度も言いながら、蔵の鍵を締めたお手伝いさんの顔が浮かぶ。あの人が今後、今日のことで心を痛めることがないと良いけれど。考えながら、両手を組む。
逃げないようにと閉じ込められて、それでもやることはただ一つだ。脳裏に浮かぶ異形の彼を、どうか自由に。自由に。そうでもしていないと、思わず大きな声をあげてしまいそうだった。
忌み名とは、まじない師に伝わる古い風習のことだ。この世に生を受け生きる以上、完璧な幸福は難しく、一定の苦しみは背負う定めにある。だからせめて、その苦しみが一つでも少なくなるように、あらかじめ名前にあまり好ましくない漢字を含ませておく。本当に古い風習だから、実際にその名前を持っているのは、このお屋敷でも私だけだ。お母様からもらった大切な名前で…きっと、意味もあるのだろう。皆、不吉な言葉を口にするのが嫌みたいで、あまり名前を呼んでもらったことはないけれど。
仕方がない。私は役立たずで、そんなのをいつまでも養っておく必要はないから、お屋敷同士の繋がりを作るためにも、早々に嫁へ出す。その方が合理的だ。だから、仕方がない。仕方が……。
「…おなかすいた」
ぐるぐると下腹部から聞こえる音で、思考が中断させられる。そういえば、昨日の夜から何も食べていない。どんな状況であってもお腹は空くんだ。自嘲めいた笑いが込み上げて、その場に身体を横たえる。目を瞑ると、あまり考えたくないことばかりが浮かぶから、代わりに楽しいことを考えた。私が木から落ちそうになって、バケくんが受け止めてくれて、その上からさらにリクが落ちてきた時。あれは、面白かったな。肩を怒らせながらリクを追いかけるバケくんの姿は、新鮮だった。
だから、あんな日々がもうしばらく、続いてくれればよかったのに。
「…また明日って言われたけど」
バケくんの、去り際の言葉を思い浮かべる。明日会おうって言われたけど、この調子だと会えそうにないなあ。考えて、目を閉じた。少し寒くて身震いしていたら、リクが小さな身体で精一杯覆い被さってくれて、それでようやく、眠りに落ちることができた。
「──やあどうも、こんばんは」
話しかけられて、目を開ける。まるで雲のように柔らかい敷物と、広すぎる座敷。大昔に絵本で見た、王様と謁見するような部屋だ。そこで私は、顔に不織布をつけ、長い髪を三つ編みにして垂らしている男の人と、上等な着物に身を包んで向かい合っている。その光景があまりにも現実離れしていたから、私はすぐに、これが夢なのだと気がつくことができた。周囲には、色のついた甘い香が漂っている。周囲を見ると、大きく開かれた障子から見える庭に、リクのような生き物が何匹も転がっていた。
「…これは、なんの夢?」
「なんだろうね。けれど、半分くらいは現実だよ」
「……」
「信じられないって顔してるな。まあ、いい。自己紹介をしよう。私の名前は
「…天涯様」
「はは。なんだ、呼んでくれないのか。あの哀れな鳥のことは、ずいぶん可愛らしい名前で呼んでいるのに」
まるですべてを掌握しているかのような、含みのある言い方だった。これが私の夢なら、この人だって私の夢の登場人物なんだから、バケくんのことだって知っていてもおかしくはない。……けれど、何かおかしい。
この人は、私の知らない何かまで知っている。確信はないのに、そんな予感がある。
違和感を抱え、顔色を変えた私をみて、不織布の人──天涯様は、ゆったりと両手を上げた。
「そう警戒しないでおくれ。かわいい子孫のためにすこし、手を貸してやろうと思っただけなんだ」
「子孫…?」
「そう。間を持たせるのは苦手なんで本題から言うが、お前には始祖の血というものが流れている」
しそのち。単語を聞いてすぐに浮かんだのは、書庫で拾い上げたメモと──シクラの顔だった。
庭から上がってきたリク…のような生き物が、そこかしこの装飾にじゃれついている。天涯様はそれらすべてを気にかけることなく、話を続ける。
「もともとはお前の母親が持っていたものだが、肉体を失うと同時にお前へ継承された。始祖の血はこの世でただ一人だけだからね。お前が一卵性の双子でもない限りは、お前以外にこの力を持つものはいない」
「…お母様の…」
「現状、お前は何のまじないも使うことができない。それは、始祖の力が封じられているからだ。おそらくお前の母親が、自分の死期を悟った後、残される幼いお前が利用されることのないように、と施したのだろう。…始祖の血を用いれば、おおよそできないことなんて何もない。お前を蔑ろにしたすべてに報復ができる。どうだ、わくわくするだろ」
不織布があるから、天涯様の表情は見えない。けれどすごく、意地の悪い笑顔を浮かべているのだろうということはわかった。
「…私は別に、報復なんてしたくないです」
「へえ…まあすぐに、揺らぐことになるだろう。首都へ行けばね」
…やはりこの人は、すべてを知っている。無意識に胸元に下げた鍵を握ると、天涯様は喉を鳴らした。
「…まあ、始祖の力も良いことばかりじゃない。一度始祖の力を使えば、この国全土の御事や力を持った人間にお前の存在が伝わる。そうすればもう、以前のような生活はできない。始祖の血は究極の増力剤だからね。ありとあらゆる御事、人間がそれを欲しがるだろう」
視界がぶれて、物の輪郭が曖昧になる。夢の終わりが近いのだろう。世界の色彩が落ちていき、白い光に包まれる。そんな中で、最後に天涯様の声だけが聞こえた。
「それでも力を使いたいなら、名前を。何よりも誇り高い、その名を示しなさい。お前が本当に望んだ時、すべては思いのままになる」
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