第9話 回想


 人間の営みには際限がない。生まれ、笑い、怒り、悲しみ、憎み、喜び、死ぬ。たった一つの祖先から進化を得て、何百年を過ごしながら、ずっと同じことを繰り返している。永遠という言葉の証明には必要な種族だ。

 …はは。そんなに睨むなよ。つまり、何の話がしたいのかって、それが聞きたいんだろ。お前の両目に書いてある。


 対話が無理なら力比べをしよう。それに乗ったのはお前で、負けたのもお前だ。だから私は、勝者の利権としてお前の自由を奪った。だが決して、お前が憎いからこんなことをしたのではない。

 私はね、お前に怒り以外の感情を知ってほしいと思ったんだ。際限のない憎しみが体の形を作り、血液の代わりに怒りが流れている。そんな命が、そのまま消えて行こうとするのを哀れんだ。最後に何か一つくらい、美しい感情を知ってからでも遅くはないと思った。ただ、それだけさ。…ああ。暴れるのはいいが、その鎖は絶対に解けないぞ。まして、今のお前では、ね。


 お前は今から、途方もない時間を一人、ここで過ごすことになる。全てを私への恨みへ費やしても良いし、自分の生命を振り返ったって良い。お前はすべてを知っているようで何も知らない。それに、ここには自由以外の全部がある。だが、その果て──何百、何千、何万年後。お前が新たな感情を知った時。戒めは消えて、お前は再び自由を取り戻すだろう。そうしたら、あとは好きにしたら良い。周囲へ戦火を振り撒いても、災禍の隣人として生きても良い。結果人間が滅んだとしても、まあ。そういう運命だったのだろう。私自身は、彼らの繁栄にそこまで興味があるわけではないんだ。

 ずいぶん余裕そうだって? …はは。まあ、そうかもね。うん、余裕だよ。だって私は、自由になったお前がそんなことをするとは、全く思っていない。そういう確信があるからね。


 なぜこんな事をするのか? 言っただろ。お前を憐んでいるんだ。それから……そうだね。贖罪も少しだけ、あるかな。元を辿れば、全て私のせいだから。

 それじゃあな、哀れな鳥。私はもう行くよ。生み出したものの責任として、各地にいるお前みたいな存在を、どうにかしてやらないといけない。


 いつか再びお前が大空を駆ける時、その傍らにはきっと、お前が予期もしなかった感情があるだろう。その時に、覚えていたらでいい。私の言葉を思い出せ。どれほど憎しみ拒んでも、世界は甚だ、うつくしいのだと。



 ◆



 久しぶりに夢を見た。随分前の、全く不愉快な夢だった。目を開けると、目の前に最近覚えた顔がある。


「……なんだ」


 声をかけると、人間はびくりと体を振るわせ、伸ばしかけていた手を引っ込めた。持たれていた木の幹から体を起こすと、同じ距離だけ遠ざかる。まさしく、悪戯が露呈した子供のような態度だった。


「…起こしちゃった?」

「お前がくる前から起きていた」

「わん!」

「うるさい」

「リクはね、貴方に撫でてもらいたいんだって」

「わん!」

「撫でない」

「わん…」

「……」

「……何だその目は。都党を組んで俺を困らせるなといつも言っているだろう」


 先ほどまで小さな体の全身で好意を伝えていた毛玉が、空気を抜いた風船のように萎む。傍の人間は、そんな毛玉とこちらを交互に見ている。

 何百年のうちの、数ヶ月。そんな期間で、ここも随分、騒がしくなった。過ごしやすさで言えば、圧倒的に以前の方が良かった。それは比べるまでもなく、明白だ。

 それでも──。


「…はあ」


 ため息を吐きながら手を伸ばすと、許可を得た毛玉がまたぶわりと膨らんで、胸元へ飛び込んでくる。あやし方なんてわからないから、力加減や爪に気を配って、適当に頭や顎を触った。ぞんざいな扱いで、それでも毛玉は嬉しそうだった。長くて白い毛の間から、翡翠の瞳が見え隠れする。

 そうやって構ってやって、しばらくしたあと、今度は空いている手を人間に向かって差し出した。人間は伸ばされた爪先をじっと見つめ、首を傾げている。


「…バケくん、どうしたの?」

「お前は」

「私?」

「お前は来ないのか」

「えっ…」

「随分、羨ましそうに見ていた」


 事実を言っただけなのに、まさか指摘をされるとは思わなかった、と言った表情で、人間はしばらく固まる。そのまま石になってしまうのではないかと思い始めた頃、微かに赤くなった顔を勢いよく横に振った。


「わ、私は、いいの」

「そうか」

「うん、そう」


 絶対に、そう。独り言のように呟いて、下を向く。妙な態度だ。思ったが、この人間の奇怪さは今に始まった事ではない。特に追求はせず、鳴き声で催促をする毛玉を捏ねた。

 そうしているうち、些細なことを閃いた。


「…そうか。そうだった。お前は、別の物言いをした方が、聞き分けが良いんだった」


 言いながら、首を傾げている人間に再び、手を差し伸べる。理解ができていない相手を前に、こちらから何かを仕掛けてやるのは、少しだけ気分が良かった。


「──ほら、おいで」


 くるくる変わる表情は、見ていて飽きない。春に成る果実のような顔色で、人間はどんな言葉を発すれば良いかわからないらしかった。自然と上がる口角に、何より自分自身が驚いている。俺はいつ、こんな仕草を学んだのだろう。考える脳裏に、不愉快な声が響く。

 ──私はね、お前に怒り以外の感情を知ってほしいと思ったんだ。


「……」


 しばらく固まっていて、やがて自分の中で何かしらの決意を固めた人間が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。それから、恐る恐る、と言った様子で傍へ腰を下ろし、硬く目を瞑ると、ぎこちなくこちらへ頭を差し出した。機械仕掛けの人形のような動きだった。


「……」

「……バケくん、いま笑ったでしょう」

「笑ってない」

「うそ。私をからかってるんだ」

「ちがう。かわいがってやってる」

「かわ、」

「わん!」


 撫でる手が疎かになっていたからだろう。毛玉が不満げに声を上げて、人間の着物の裾をぐいぐいと引っ張る。早くこちらに来い。意図を正しく読み取った人間が、いまだに何やらぶつぶつ呟いて抵抗しているので、その小言ごと胸に抱き抱えた。触れた肌から、小鳥のように忙しない鼓動が聞こえてくる。


「……バケくんはやっぱり、いじわるになった」


 他にもいくつか不満を漏らしていたが、聞き流して目を閉じる。このまま眠ることができたら、少しはマシな夢が見られるかもしれない。

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