第8話 銀色の鍵
息を飲み込むのも憚られるほどの静寂だった。先ほどまで忙しなく動いていて、準備を終えたお手伝いさんたちは、部屋の隅で静かに待機をしている。向かい側にはお兄様がいるけれど、視線を下に向けたまま微動だにしない。皆と同じように緊張をしているのだろうか。それとも。
奥様──お兄様のお母様が都から戻られたので、みんなで夕食を取ることになった。お父様はお仕事で不在だから、あとは奥様の到着を待つのみになっている。
ふだん食事は自室までお手伝いさんが運んできてくれるから、こうやって広い部屋で、立派なご飯を食べるのはお母様がいた頃以来だ。お箸の使い方、とか。一通りの作法はお母様から習っているけれど、うまくできるだろうか。
ぐるぐると思案していると、襖が開いて、むせ返るようなお香の匂いがする。一瞬、頭に柔和な笑みを浮かべる白銀が浮かんだけれど、即座に打ち消した。だって、現れたのは。
「──お待たせしてごめんなさい」
なんて、美しい着物だろう。白地に施された金色の刺繍は、照明の微かな光であっても存分に輝いた。丁寧に櫛を通された髪はお兄様と同じ金色をしている。紅で彩られた口元には微笑が浮かんでいて、どきどきしてしまう。
奥様は、黙って座っているお兄様をみて、笑みを深くした。それから、細くて長い指を持ち上げ、着物の裾を整えたり、食事の説明をしたり、と忙しなく動いているお手伝いさんの一人を呼び止める。
「ねえ、あなた」
「っは、はい。何でございましょう」
「どうして、誰もいない席に食事の用意がされているの?」
場が静寂に包まれる。奥様は、部屋へ入ってきてから一度も私の方を見ていない。けれどその言葉が、誰のことを指しているか、というのは、その場にいる誰もがわかっていた。
「私は、家族と食事がしたい、と言ったのだけど」
「え…し、しかしながら」
「…これ以上、お話が必要?」
奥様の顔には依然、菩薩のような微笑みが浮かんでいる。だからもう、誰も何も言えなかった。このお屋敷では、たとえ真っ黒なカラスでも、奥様が白い鳥といえば白い鳥になるのだ。
戸惑いを残しながら、お手伝いさんが私の食事を片付け始める。その場に留まるのは、何だかひどく惨めに思えたので、私も早々に退出した。去り際に一応、挨拶と礼をしたけれど、きっと視界には入っていないだろう。
お母様がいなくなってしまって、一緒に暮らしていた離れが壊されて、このお屋敷に部屋を与えられて暮らすようになってからもう随分と経つけれど、奥様とはまともに言葉を交わしたことがない。視線も合わせてもらえないし、挨拶をしても何も返してもらえないから、奥様には本当に私が見えていないんじゃないかと思ったほどだ。
…ごはん、食べたかったな。
◆
あかりもついていない廊下を歩いて、自分の部屋へ戻る。もともと物置だったところを改造したから、縁側を歩いたつきあたりの壁、なんていう変な位置にあったけれど、それだから静かでけっこう気に入っていた。中は二畳ほどの広さだ。前までは、この床にガラス玉を目一杯並べて、小さな窓から差し込む光が伝播するのを見るのが好きだった。今は。
「……」
今日も、山奥で一人過ごしているのであろう、彼のことを思う。祈りの形は、お母様から教わった。叶えたい願いがある時、それを強く思い浮かべながら指を組む。そうすれば、いつかはそれが現実になる。そう聞かされて、けれど、実際にやってみるのは初めてだった。効果があるのかはわからない。もしかしたら、いまだにまじない一つ使いこなせない私の才能では、全く意味のない行いなのかもしれない。
それでも、何かをせずにはいられなかった。これを、彼のためにやらなくては。彼のために祈らなくては。胸を焼く焦燥が体を動かして、今日も強く、両手を組む。
「──お嬢様」
しばらくして、控えめな声と共に扉を叩かれた。振り返ると、リクは部屋の隅で鼻をぷうぷう鳴らして寝ている。以前、私によくないことをしようとした使用人が近づいてきた時は、低く唸っていたから、のんびりとくつろいでいる今回はきっと大丈夫だろう。確認してから、私は静かに扉を開く。
「…はい」
「お休みのところ申し訳ございません。お食事をお持ちしました」
立っていたのは、お母様がまだ元気だった頃、よくお話をしていたお手伝いさんのうちの一人──キクエさんだった。繊細そうな指先で、お盆に乗せた食事を床へ置くと、間髪を容れずその横に跪いて、床に額がつきそうなほど頭を下げる。行動を見守っていた私は、突然の行動に戸惑って、次に発すべき言葉を見失った。美味しそうに湯気をたてる食事も、鼻腔をくすぐる匂いも、すべてが意識の外だ。挨拶にしては、深すぎる。だからこれは、謝罪のための礼だ。いったい何を、これほど悔いる必要があるのだろう。
「あ、あの、何を」
「お許しください、お嬢様。こんなのは間違っていると声をあげるべきだったのに、そうした方が絶対に良いとわかっていたのに、私は、何より自分自身のために、お嬢様の境遇から目を逸らしました。奥様や旦那様、クガ様に逆らってこのお屋敷を離れることになれば、自分の子供を養うことができない。そんな身勝手で、お嬢様を裏切ったのです」
「裏切り、だなんて。とにかく頭を上げて、」
「いいえ、裏切りです。……これを」
言いながら、お手伝いさんは懐から小さな風呂敷を取り出し、私へ差し出す。戸惑っていると、片手を優しく掬い取られ、その上に確かな重みが載せられた。紺色に、控えめな刺繍。覚えのある、花の香り。見たことがないのに、何だかとても懐かしい。迷いながら、それでも包みを解いてみると、中身は銀色の鍵だった。傷の一つもない表面が、微かな月光を拾ってきらりと光る。
「これは…?」
「奥様──ムメイ様から預かっていたものです」
久しぶりに、名前を聞いた。顔がぶわりと熱くなって、思わず涙が出そうになるのを、必死に堪える。ムメイ。私の、お母様の名前だ。奥様が正式にお父様の妻として迎え入れられてからは、まるで禁呪みたいに、口にすることすら許されていなかった。前に一度、誤ってお母様の話をしてしまったお手伝いさんのうち一人が、ひどい叱責を受けていたのを覚えている。そこに口を挟んで、後でお兄様からひどい罰を受けたことも。
「ムメイ様が亡くなられた後、そのお荷物は大半が奥様により処分されてしまいましたが、一部は貸金庫へ移され、今も保管されています。これはその金庫を開ける鍵です。…本当は、お嬢様がもう少し大きくなってから渡そうと考えていたのですが」
キクエさんが、一瞬目を伏せる。言うべきか、黙るべきか。ひとつまみの逡巡のあと、やがて意を決したように口を開く。
「私は、本日付でお暇をもらいました」
「え…」
キクエさんは、もう長いことこのお屋敷で働いている。他のお手伝いさんに指示を出す立場でもあるはずだ。それがどうして、いきなり解雇なんて。
……そういえば。
あの食事の席で、私の一番近くにいたのがキクエさんだった。食事の用意を、してくれたのも。それが、奥様の気に触ったのだとしたら。
「お嬢様のせいではありません。遅かれ早かれ、こうなる運命だったのです」
「でも、」
「聞いてください、お嬢様。首都へ行くのです。そこに貸金庫があります。必ず開けて、中に入っているもの全てを読んでください。そうすればきっと」
私の狼狽を悟って、謝罪をする口を挟む暇を持たせないよう、キクエさんが続け様に言葉を並べる。元気を分けるように、力強く握られた手は暖かかった。脳裏に、微かな思い出が蘇る。お屋敷の離れで、お母様と、私。庭で転んだ私を、うまく身体を起こせないお母様の代わりに、抱き上げてくれた手。それが、キクエさんだった。この人は確かに、あの場にいた。
微かな物音を聞いて、キクエさんがはっとした様子で周囲に視線を巡らせる。
「…もう行きます。短い間でしたが、ムメイ様とお嬢様のお世話をさせていただき、幸せでした」
「あっ…ま、待って」
足早に去っていこうとするキクエさんを呼び止める。それから、この人のためにいま、私ができることを考えた。けれど、私はやっぱり、腹立たしいくらいに弱くて、この人のために何もしてあげられない。両手を振ったら問題が全て解決をするような、そんな万能な術が使えたら、どれだけよかっただろう。
大切な人が、優しい人が次々にいなくなって、それでもどうして私は、何もできずにただ一人、ここで生きているのだろう。
無力を恥じながら、それでも私は、いつものように祈るしかなかった。両手のうちにキクエさんの手を握り込んで、額をつける。
「お嬢様…?」
「これくらいしかできなくて、ごめんなさい。でも、祈らせてください。キクエさんがこれから歩む、未来の安寧を」
祈りなんて、くだらないことを、と一蹴されるかもしれない。思っていたけれど、いつまでたっても言葉はなかった。代わりに、暖かな手が私の頭に置かれ、そのまま指で髪をすく。
「ムメイ様も、よく同じことをしてくださいました」
声は震えていた。表情を見るのは憚られて、代わりに私は、より力強く祈りを込める。どうか、どうか──お母様。みているのであればどうか。
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