第7話 受け止める
蕾に心を躍らせていた春がすぎて、夏になった。生い茂る草木はどれも生命力に溢れていて、未だ陰っている空だけが、ずっと変わらずにいる。遠くの方で、大きな鳥が飛び立った。かと思えば後に、何匹もの小さな影が続く。あんなに大きな体で、追いかけまわされているのだろうか。夏は隠れる場所が多いから、なんとか無事に家へ帰れるといいけど。
「…そんなところで何をしている」
「バケくんが普段、どんな景色を見ているのかが気になって」
「わん!」
下の方から声がして、視線を送る。いつも通りのバケくんが、呆れたようにこちらを見上げていた。今日は、ここへ来た時たまたま姿が見えなかったから、ふと好奇心が働いて、いつもバケくんが身体を横たえている枝の上へ登ってみた。手伝ってくれたリクは、あの一件以来、バケくんに吠えない。それどころか尻尾を振って、心配になるほどの懐柔っぷりだ。
「落ちたら死ぬぞ」
「落ちないもん」
「言い方を変える。危ないから降りてこい」
バケくんは最近、ずるいことを覚えた。厳しく接するよりも、優しい言い方をする方が、私が屁理屈を言わないし、逆らわないと気がついたようだ。今回も逆らう理由がなくなって、私は渋々、降りる準備をする。
「バケくんは、優しい意地悪をするようになった」
「手間がかからない方を選んでいるだけだ」
「そんなこと…うわっ」
ゆっくりと降りようとして、手が滑る。身体が木から離れて、しばらくの浮遊感があった。しまった。来る時はリクに手伝ってもらったのに、先程までそれをきちんと覚えていたのに、どうして一人で降りようとしたんだろう。
来るべき痛みに備えて、ぎゅっと目を瞑る。しばらくして、どすんと背中に衝撃があった。けれどそれは、硬い地面ではない。もう少し柔らかくて、暖かい……。
「──ほら、死んだ」
私を両手で受け止めて、片眉を上げたバケくんは、意地悪っぽく口角をしならせた。薄く色づいた唇の合間から、赤い舌が見える。どき、と心臓が脈打って、思わず首を傾げた。高いところから落ちたのが、それほどおそろしかったのだろうか。そう思って胸に手を当てても、鼓動の速さは変わらない。
「あ、ありがとう」
「弱くて鈍臭いくせに無理をするからだ。どうしても登りたければ、次からは俺を」
「わん!」
鳴き声と共に木の上からリクが落ちてきて、バケくんの頭に着地する。そのまま、少しだけ体勢を崩したバケくんを足場にして、リクは足早に近くの茂みへ消えていった。
「──毛玉!」
私を地面へ下ろすと、バケくんはリクを追いかけて、同じ茂みへ入っていく。その後ろ姿を視線で追いながら、私まだ、平常を取り戻さない胸に手を当てていた。
「お前、主人ならこいつをきちんと躾けておけ」
しばらくして、バケくんがリクを小脇に抱えて戻ってきた。おそらく叱られた後なのに、がっしりとした腕の中でリクは、嬉しそうに尻尾を振っている。遊んでもらえたと思っているのだろう。
「主人じゃないよ、友達だよ」
「付き従う関係をそうは呼ばない」
「付き従う?」
「…お前まさか、こいつがただの犬に見えてるんじゃないだろうな」
態度には出さなかったつもりだけど、隠しきれていなかったのだろう。私の肯定を受け取って、バケくんがため息を吐く。
「こいつを託したのは、お前の母親だと言ったな」
「うん」
「何も聞いていないのか」
「何を?」
「帰ったら聞け。こいつをどこで拾ってきたのか」
「それは…」
すこし、難しい。だってお母様は、ずいぶん前にいなくなってしまった。いつだって暖かく、柔らかかった手のひらが、布団を握りしめたまま冷たく、硬くなっていくのを、黙ってみているしかなかった。いつからだろう。そんな光景が、お母様との楽しい思い出よりも先に、浮かんでくるようになったのは。顔はまだ、思い出せる。声も。でも、お母様の胸元へ飛び込んだ時にだけする、大好きだったはずの花の香りはもう、朧げだ。私はこれから少しずつ、確実に、お母様を忘れていくのだ。
新しい思い出が作れたら、それで上書きができたら、どんなにいいだろう。私が答えに困っていると、バケくんが口を開く。
「……いや。思い出した。最初に会った時、母親が残したと言ったな」
「…あ」
「事情を汲んでやるべきだった。撤回する」
「…あやまってる…バケくんが…わたしに…」
「代わりに俺が、こいつのことをわかる範囲で教えてやる。座れ」
呆然とする私を置いて、バケくんはさっさと話を進める。話題の中心が自分にあると悟って、リクはさらに嬉しそうな顔をした。腕の中から身軽に地面へ着地して、私たちの周りをぐるぐると駆けている。
座れ、と言われたので、なるべく平たい地面を探す。腰を下ろそうとすると、待て、と静止するバケくんの声があった。言われた通り、腰を低くした中途半端な姿勢で固まっていると、鋭い爪を携えた長い指が、空中で何かの図形を描く。すると次には、地面に立派な敷物が引かれていた。
「陰っていれば底は冷える。弱いのだから、それなりの振る舞いをしろ」
「…あ、ありがとう」
お礼を言って、腰を下ろす。こうやって、あれこれを気を配ってもらえるのは初めてで、なんだか落ち着かない。自分勝手に気まずくなって、私は慌てて口を開く。
「ずっと思ってたんだけど、バケくんもお父様やお兄様みたいに、いろいろなまじないを使えるんだね」
「当たり前だろう。そもそもこれは、俺たちだけの物だった」
「俺たち?」
「人間ではないものの総称……
「みこと…」
「…お前は何も知らないな。本は読まないのか。人と話をしたりは?」
「ごめんなさい。本は禁止されているし、人ともあまり話さないから…」
「……まあ、いい」
ため息をつきながら、バケくんが近くの岩に腰を下ろす。巻きついた鎖が、表面を撫でて随分と大袈裟な音を立てた。いったいどれくらいの重さなのだろう。
「話を戻すぞ。そこで今も間抜けに尻尾を振っている毛玉についてだ。そいつは──」
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