第12話 変化
無我夢中で走って、ずいぶん、遠くまで来てしまった。お屋敷近くの山の中…ではあるんだけど、景色に見覚えがない。頭上は樹木が幾重にも生い茂っていて、あまり光が届かないから、夜更けみたいな錯覚を覚える。いま、何時だろうか。お屋敷を飛び出した時は、お昼より前だった気がするけれど。
「…リク」
呼びかけると、リクは鼻を鳴らしながら手のひらに頭を擦り付けてくる。いつものように駆け回る元気も、鳴いて返事をする力もないのだろう。はやく、治してあげないと。
周囲を探って、鋭く伸びた葉っぱを見つけると一部をちぎり、親指の腹を押し当てると横に引く。炙られたような痛みのあと、赤い線が浮き上がり、ぷつりぷつりと血の雫が湧き上がってきた。それをリクの口元へ運び、舐めやすいように顔を支えてあげる。
「…ごめんね、リク」
すべて、私が至らないせいだ。私がもっとうまくやれれば、それ以前にお兄様とうまく交渉ができれば、リクはこんな目に遭わなかった。
リクは、以前にもこういう状態になったことがある。機嫌の悪いお兄様から、その術から、私を庇ってくれた時だ。血を与えれば良いと気がついたのもその時で、擦りむいた膝から流れる血を一生懸命に舐めているリクをみて、言葉にできない感情を抱いた。
私が弱いままでいる限り、きっとまた、同じことが起こる。大切な人がいなくなるのが嫌だから行動を起こしたのに、これでは本末転倒だ。
なにか、現状を変える力があれば。
ふと、背後で鳥が飛び立った。ざわざわと揺れる木々は、風もないのにその激しさを増し、やがて、茂みからひとつの影が出てきた。
「…やあ、お嬢ちゃん。こんなところで、一人かな?」
草木をかき分けながら近づいてきた男の人は、この辺りではあまり見かけない洋服を着て、帽子を目元が隠れるくらいまで深く被っている。立ち上がろうとすると、背後からも近づく気配があった。相手は二人で、どうやら囲まれている。
──だめだ、いまは。いまだけは。
「俺たち、道に迷ってしまってね。よければ車に乗って、道案内をしてくれないかな。麓に止めてあるんだ」
「…だめ」
「だめ? そんなこと言わないでよ、寂しいじゃないか」
「そうそう。おじさんたちは、お嬢ちゃんと仲良くなりたいだけなんだよ」
「だめ、こっちへ来ないで」
──お前まさか、こいつがただの犬に見えてるんじゃないだろうな。
脳裏でバケくんの声がする。最近になるまで本物の犬を見たことがなかったから、当初の私は、リクの正体を微塵も疑わなかった。男の人たちが目配せをして、私と距離を詰める。
「…なあ、もういいだろ」
「そうだな。どうせここには誰も来ない…お屋敷のご令嬢が一人でうろついてるって噂は本当だったみたいだな。これで当面は、坊ちゃんの機嫌も良いだろう」
「金持ちの考えることはわかんねえなあ。こんなガキのどこが良いんだか」
「それ、絶対に坊ちゃんの前で言うなよ。……というわけで、一緒に来てもらうよ」
男の人たちが、私の身体を掴む。視界の端で、リクがゆらりと起き上がる。
普段、リクはとてもおとなしい。すこしの悪戯はするけれど、私がだめだということは決してやらない。でも、今回のように、自分が負傷している時。リクは──手負の獣は、理性が焼き切れてしまう。
「…あ?」
「どうした?」
「いや…なんか、気配が」
バケくんが教えてくれた。普通の犬は、身体の大きさを自由に変えられない。
「なにもねえよ、風だろ」
「…風、にしては」
バケくんが教えてくれた。普通の犬は、私以外の目にも、いつだってきちんと映る。
「…は、?」
「…なんだこの化け物、いつから…!」
バケくんが教えてくれた。普通の犬は、目が八個もない。
「── 縺�k縺輔>縺ェ」
この世に存在する、どの言葉にも当てはらない。いつものとは違って、とても形容し難い鳴き声だ。
爛々と輝く翡翠の横に、豆粒のような瞳が三つ並んでいる。身体は、男の人を縦に積み重ねたって届かないほどに大きい。白い毛並みは現在で、風に靡いて揺れている。口を開くと、下顎が二つに割れ、赤い口腔内には細かい歯が隙間なく生えていた。
──これが、リクだ。お母様が亡くなる直前、私のために作った"御事"。私のそばにいること。私の命を守ること。以上二つを絶対的な命令として動いている存在。
私の、大切な家族。
地面が揺れる程の咆哮の後、リクが男の人たちに飛びかかる。必死に逃げ惑うけれど、二本の足では、四本足のリクに勝てるわけもなかった。
──全部食べてしまうよ。いいね?
頭の中に声が響く。首を振ると、男の人たちを追い詰め、自身の足の下に敷いたリクが、不思議そうに首を傾げた。
どうして? この男達からは、何十では足りない、少女の血の匂いがする。ここで見逃してやる理由はない。
「だったら尚更、生きて償わないといけない」
少女たちは、その選択すらさせてもらえなかったのに?
「わけもわからないうちに死んだって、何も意味がないよ」
……わからないねえ。
呟いて、リクが欠伸をする。散々弄ばれた男の人たちは、四肢が変な方向に曲がって、ぐったりとしていた。それを咥えると、リクがのそのそと歩き出す。
その辺りに捨ててくる。ここを動いてはだめだよ。
しっかりと頷くと、リクは満足げにそれを見届けて、山の中へ消えていく。
まるで、人格が二つあるようだ。リクとは、この姿になった時だけお喋りができる。その声はいつも凍てついていて、普段の愛くるしい様子からは想像もできない。こちらが、本来のリクなのだろうか。だとしたら、私は──。
「…こんなところで何をしている」
聞こえるはずのない声がして、私は勢いよく振り返る。黒い髪に、燃え盛るような紅蓮の瞳。鋭く尖った爪と、折り畳まれた羽。
「…バケくん、なんで」
「随分と騒がしかったからな」
「そうじゃなくて」
「……お前と出会ってから、可動範囲が増えた。今までは、鎖を埋め込まれた岩の周辺しか歩けなかったのに、今ではここまで来られる」
祈りとやらも、侮れないな。呟いて、バケくんがこちらに歩いてくる。わずかに差し込んだ日光が、その顔を照らしていた。つられて足元を見ると、いつもの鎖が霞んでいて、鉄の輪しか見えない。
「…全部、見てた?」
「いや。俺が感じ取れたのは、あの毛玉が大暴れした、ということくらいだ」
「…そう」
乱れた着物を直しながら、息を吐く。あんなのは、バケくんじゃなくたって、誰にでも見られたくない場面だった。
バケくんは、何も言葉を発さない。そのまま私の前にしゃがむと、親指で目の下をなぞった。男の人たちと揉めている最中に、いつのまにか切れていたらしい。ぴり、とした痛みに顔を顰めていると、バケくんがようやく口を開く。
「あの毛玉が本来の姿になったということは、お前に何か、相応の危機があったんだろう」
「……」
何を言っていいかわからない。視線を逸らし、言葉に迷っていると、バケくんが続ける。
「ここへ来るまでに、気配は四つあった。一つはお前で、もう一つはあの毛玉。後の二つはどこへ行った?」
「…リクが、追い払ってくれたよ」
嘘ではない。けれど、本当の言葉でもなかった。言葉を受け取って、バケくんは何かを考え込んでいる。怪我をしたのは私で、酷い目にあったのも私。それなのに、バケくんはなぜだか、ひどく苛立っているようだった。
「…わかっていたつもりだ。お前は弱い。悲しいくらいに弱いから、俺の知らないところでいつか、危害を加えられ命を落とす。そんなのは、十分に。それでも」
感情に呼応するように、周辺の木々がざわざわと騒がしくなる。バケくんの胸元にある炎の塊が、一瞬激しく燃え上がって煙をあげたかと思うと、次にはもう治っていた。まるで何か、燃料を加えられたようだった。
「目の当たりにするまで、これほどまでに腹立たしい事だとは思わなかった」
「…私のために、怒ってくれるの?」
「違う。そんなに高尚じゃない」
微かな光が、広げられた両翼を照らしている。天蓋を木々で覆われて、色彩の落ちた世界の中で、その瞳だけが何より鮮やかに煌めいていた。
「ただ、お前が惜しくなった」
視線が逸らせない。言われた言葉の意味がよくわからなくて、私は驚きに目を開いたまま固まる。
「貧相な体に、汚れた着物。お前が家でどういう扱いを受けているか、察せないほど愚鈍ではない。だから、人間。誰にも必要とされないのなら、誰にも顧みられないのなら、俺と一緒に来い」
「…なにを、言っているの?」
「断っても良い。お前の魂の形は覚えた。今生では無理だと言うなら、この命が続く限り、どこへいたってお前を見つけ出し、また同じことを聞くだけだ」
脳裏に、今までの記憶が浮かぶ。不機嫌そうに寄せられた眉。面倒くさそうにしながらも、私を迎え入れてくれる手。いま、目の前にいる彼は、どれにも当てはまらない。彼は本当に、バケくんだろうか。そうやって逃避をしても、現実は何も変わらない。
不意に、怖くなった。飛び跳ねるように距離を取ると、バケくんが鼻を鳴らす。その表情は、暗闇に落ちて見えない。
「この俺からは逃げられない。嘘だと思うなら走れ。お前の千里が、俺にとっては数秒だ」
どうしてこれほど、こわいことを言うのだろう。何も言えなくなって、私はただ、別人のようになってしまったバケくんを見上げるしかない。
すこしだけ逡巡して、バケくんがその手をこちらへ伸ばした。しかし、考え直したのか、直前で引っ込めて、逆に距離を取る。
「…明日、また会おう。哀れで弱い、人の子よ」
言い残して、バケくんは両翼を広げると、暗い森の中へ姿を消した。残された私は、ただ、微かに震える自分の体を抱きしめることしかできなかった。
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