第11話 紫色の雷鳴


 書庫の中は暗かったけれど、日差しが高いところにあるおかげで窓がひかり、それぞれの背表紙は見ることができた。無数にある書物の中から、この辺りの地理に関するものを選んで、読み進める。読み書きを教えてくれたお母様に改めて感謝をしなくては。早々にこの状況へ飽きがきてしまったらしいリクの寝息を聴きながら、ぺらぺらと紙をめくっていく。


「……?」


 ──よし。

 一通り目を通して、首都への行き方も大体知ることができた。先程まで読んでいた本を棚へ戻すと、一枚の古びた紙切れが床へ落ちる。こんな物、あっただろうか。取る時には気が付かなかった。何も考えずに拾い上げて、表面を見る。


 ひとつ みことあり

 ふたつ にんげんあり

 みっつ ちからをさずかり

 よっつ にんげん これをなす

 いつつ しそのち ここにめいをなす


 文字を習いたての幼い子供が、気ままに書きつけたような筆記だった。なんとなく、読める。けれど意味はあまりわからない。なにより。


「しそのち…」


 聞き覚えのない単語だ。しそのち。何かの例えだろうか? じっと眺めるうち、表面に書き記された文字の形以外にも、墨が透けていることに気がついた。きっと、裏側にも何かが書いてあるのだろう。思いついて、紙をめくる。


 今すぐそこを離れろ


 それまでとは違い、荒々しくも達者な筆跡だった。滲んだ墨が指先を染めて、まるで、先ほど誰かが書いたばかりのようだ。いますぐ。文字を読んで、頭で理解をするより先に、扉の方から気配を感じる。


 ──しまった、誰か来る!


 書庫の入り口はもちろん、入ってきた扉ただ一つだけだ。いま急いで向かっても鉢合わせをするだけだろう。リクを小声で呼び寄せて、周囲を探る。ちょうど、近くに書き物机があった。小さいながらも上品なその下に潜り込み、息を潜める。

 扉の方から近づいてきた足音は、時間が経過する度大きくなる。確実にこちらへ近づいてきているのだ。どうしよう。わざわざここでしゃがみ込まなければ、私の姿は見えないと思うけれど、何にしたって時間の問題だ。頃合いを見てここを出て、どうにかこの部屋から脱出しなければ。


「──まじないが記された書物は、それ単体が非常に価値のある品物です」


 この、声は。

 驚きで声が漏れないよう、口元に強く袖を押し付ける。いまだけは呼吸も、やかましい心臓も、止めてしまえれば良いのに。そうでなければ、ここにいることがばれてしまう。

 足音ともに、聞き覚えのある声が迫ってくる。彼はいつだって柔和で、落ち着いていて、それだから底が知れない。傍で、リクが小さく唸る。


「素養の有無は関係ない。才能も何もない一般人であれ、書物を手にすることができれば、そこに記されているまじないを使うことはできなくても、どこぞの商人に売り飛ばして一財を築くことくらいはできる。ここは、書庫であると同時に宝物庫でもあるのです。だから私は、旦那様に頼まれて特別な鍵を用意した。その鍵は、私が定めた持ち主以外が使用すると、私の元に知らせが届くようになっているのですよ──ねえ、お嬢様」


 むせ返るような、お香の匂い。机のそばまでやってきたシクラは、押し込まれていた椅子を引き出すと、その奥で縮こまっていた私の腕を掴み、引っ張り出して目の前に立たせる。私の抵抗なんかまるで無駄で、きっと入室した時から、シクラには居場所がわかっていたのだろう。足元で、リクが小さな体を震わせ、しきりに吠えている。シクラはそれに見向きもしない。


「かくれんぼがお上手ですね」

「…一緒に、する?」

「残念ですが、また今度に。…一応、聞いておきましょうか。どうやってここに?」

「っ、お庭で鍵を、拾って」

「拾った…ねえ」


 口元には微笑みが浮かんでいるが、紫紺の瞳には一切の感情がなかった。私の前でしゃがんで視線の高さを合わせると、シクラは片手を振り上げる。


「少々荒療治になりますが…これも、お嬢様の教育のため。シクラは心を鬼にして、その言葉が本当かどうか、確かめさせていただきます」


 なにをするつもりなのか、と問いかける暇もなかった。シクラが掲げた手を振り下ろすと、一瞬凪いだ風が頬を撫で、そのあとに凄まじい電撃が──リクに向かって、一直線に降り注いだ。


「──リク!」


 咄嗟に名前を叫んだ。雷鳴に撃たれたリクは、今までに聞いたことのない悲鳴を上げ、書庫のあちらこちらに身体をぶつけながら悶えている。駆け寄ろうと精一杯身体を動かすのに、シクラに掴まれた腕はびくともしない。


「はなして!」

「今のは、鍵を盗んだ者にたいする仕置きの術です。お嬢様本人ではなく、その足元に雷鳴が落ちたということは……本当に、お嬢様が直接、鍵を盗んだというわけではないのでしょう。疑ってしまい申し訳ございません。ですが、お嬢様」


 視線が交わって、そうしたらまるで、蛇に睨まれた蛙みたいに、身体の動きが止まる。目の前にいるシクラは、笑っていない。無表情で、作り物みたいにきれいな紫色の瞳だけが、爛々としている。


「いま、"何か"を目で追い、その名を呼びましたね」


 圧倒されて、言葉が出ない。何かを言おうとする喉元から、嗚咽とも吐息ともとれない音が出る。口の端から、白い息が漏れていた。ここはそれほど、寒い場所であっただろうか。

 私の様子を見て、シクラが声色を変える。怪我をした小鳥に、話しかけるような。自分が絶対的な強者であることを微塵も疑わず、対峙した弱くて可哀想な生き物に、情けをかけてやろうとする。そんな態度が、全身から滲み出ていた。


「申し訳ございません。お嬢様に意地悪がしたいわけではないのです。──そうだ、まじないに関する書物を見せてあげましょうか」

「……」

「そんなに警戒せずとも、私であればいつでもこの部屋を開けられます。もちろん、旦那様やクガ様にも内緒です。ただし」


 片手が、私の頬を撫でる。こんなところで弄ばれている場合ではない。はやく、リクのところへ。駆け寄って、治療をしてあげないとリクが、大切な家族が死んでしまう。

 指先が、私の目元を掠める。こぼれ落ちる涙を掬い取って、シクラは笑みを濃くした。


「お嬢様のことをすこし、調べさせていただけませんか」


 何を言われているかわからない。シクラの背中越し、立派な敷物のしかれた床に、力なく横たわるリクの姿がある。その身体からは、微かに煙が上がっていた。


「前々から不思議に思っていたのです。旦那様と、あの女──失礼。ムメイ様の血を継ぐお嬢様が、これほどまでに非力なわけがないと」


 はやく、行かないと。頷いたらこの人は、私を解放してくれるだろうか。縋るような視線に気がついたらシクラは、私の望みなんて全部わかっているみたいに言葉を続ける。


「本当に才能がないのか、それとも意図的に、何者かによって秘匿されているのか。私はそれが知りたいのです、お嬢様」

「…しって、どうするの?」

「もちろん」


 吊り上がった口角と、薄い唇から覗く真っ赤な舌。先端は、二つに分かれている。紫紺の瞳と瞳孔は引き絞られて、鋭い三日月みたいな形をしていた。

 まるで、蛇だ。思うと同時に、シクラが私に顔を近づける。


「始祖の血であれば、いくらでも使いようがある」

「──わん!」


 力強い鳴き声だった。後頭部に衝撃を受けて、シクラの体勢が一瞬崩れる。何が起きたのか、確認をするために振り返った身体からは、少しだけ力が抜けていた。

 ──今しかない…!

 私は急いで掴まれていた手を振り払い、死に物狂いでシクラの横を抜けると、床に転がっているリクを拾い上げ、力強く両足を動かした。

 しばらく走って、お屋敷の敷地を抜ける前に振り返る。シクラは追いかけてこなかった。それでも戻るわけには行かなくて、私はそのままお屋敷を後にした。


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