第5話 寄り添いたい



 数週間がたって、私は相変わらず、あの場所へ通っている。私が一方的に話して、彼が面倒くさがりながらも受け応えてくれて、リクはごろごろ転がっている。そんな光景にも慣れてきた。

 今日は珍しく、優しい人からお饅頭をもらえたので、一つだけこっそり懐へ収めて、バケくんのところへ持っていった。


「いらねえ」


 そして、第一声がこれだった。


「どうして? おいしいよ」

「お前が食え。俺は食べられない。食べたところで、味がわからないから無駄だ」

「じゃあ、食べられるものは? 今度はそれを持ってくる」

「酒」

「…私にはむずかしいかもしれない」

「別に、何もいらない。ここへくるのだって、いつ辞めたって良い」

「辞めない。だってまだ、鎖で繋がれたままだもん」

「…お前、本気で言っていたのか」


 いつぞやの言葉を思い出したのだろう。ぱちぱちと大きな瞬きを繰り返しながら、バケくんが木の枝に横たえていた体を起こし、私の目の前に降りてくる。


「鎖、解けそう?」

「何も変わらない。変わるわけないだろう」

「それじゃあもっと時間を長くしないと…」

「…何の話だ?」

「私、毎晩あなたのことを考えている」


 両手の薬指を交差させ、そのまま握り込む。親指と親指を重ねると、拳を額に当てた。


「…それは」

「お母様に教えてもらった。この形で手を結んで心から祈ると、想いが伝わるって。だから私、毎晩あなたのことを考えて、この鎖を作った人にお願いしているの。どうか、バケくんを自由にしてくださいって」

「……本気か?」

「とても本気」

「…どうしてそんなことをする」


 バケくんは、戸惑いを隠せない様子だった。誰もいない暗がりから忍び寄る足音を聞くような、そんな目で、祈る私を見つめている。


「俺が自由になって、お前に何の徳がある」

「だって、あなたは良い人だから」


 私の言葉を受けるたび、バケくんの顔色は悪くなっていく。わからない。理解ができない。それだからひどく、恐ろしい。


「良い人だから、閉じ込められる理由なんてないと思った。それに、あなたは私を、初めて助けてくれた人だから」

「…もういい、やめろ!」


 初めて、声を荒げるのを見た。風もないのに木々がざわざわと騒がしく、遠くの方から雷が聞こえる。道案内を終えて、呑気に体を横たえていたリクが、俊敏に飛び上がると腰を低く落とした。初めて見せた態度だった。


「何も知らずに、勝手なことばかり」


 牙も爪も、感情へ呼応するようにより、鋭くなっていく。皮膚にヒビが走った。思うと同時に、鱗の範囲が広がっていることに気がつく。徐々に人からかけ離れていく姿を見て、蛇に睨まれた蛙みたいに、私はその場から動けなかった。


「俺という存在がどういうものか、考えたことがあるか」

「それは」

「村があった。小さくて弱くて、豊かではないが争いもない村だった。ある日隣国の兵士が攻めてきて、武器の一つも持っていなかった村人たちを無作為に選び、見せしめのように殺していった。男はもちろん、女子供は言葉にできないほどの仕打ちを受けた。一通り略奪を楽しんだ兵士たちは、最後に死体と生き残った村人を一人残らず集めると、村の中央に作った檻へ閉じ込め、火を放った。生きたまま焼かれる苦しみは想像を絶するもので、上がる悲鳴は山の麓にある別の村にまで聞こえた。お前に想像ができるか。理不尽に殺された怒り。家族を守れなかった悲しみ。尊厳を蹂躙された痛み。苦しみながら、憎みながら、村人たちは最後に祈った。どうか、この兵士たちに罰を。私たちの怒りを、どうか。その声は、やがて渦のような恨みに代わり、燃え尽きた灰に宿った。そして、生まれたのが俺だ。この身体は、数百年前の灰と怒りで出来ている」


 胸元に大きな亀裂が走り、それをなぞるように、赤い光が広がっている。身体の中が少しだけ露わになって、本来心臓があるはずの場所には、燃え盛る炎の塊があった。食いしばった口元からは煙が漏れて、離れた場所にいても、彼の熱が伝わってくる。


「俺は、目についたすべてを殺した。殺せる人間がいなくなると、場所を変えてまた殺した。とにかくすべてが憎くて、許せなかった。そうしているうちに一人の人間と出会い、封じられた。以来ずっと、ここで自分の存在意義を考えている」

「…存在意義?」

「兵士は殺した。敵は消えた。それなのに、この身体に渦巻く怒りが消えない。絶えず許すな、殺せと声がする。もう誰も、何物も、俺の周りにはいないのに」


 強い風が吹いた。かと思えば、背中を強く地面に打ちつけていた。頭上で、リクが大きく吠えるのが聞こえる。鋭い爪が、私を地面へ縫い付ける。間近に迫った彼の顔で、両目の深紅は溶け出した岩しょうのように絶えず色を変えていた。


「自由になれば、俺はまた人を殺すぞ。手始めにお前の家族だ。殺し尽くして、そうしたら次はこの国。無数の骸を並べた前で、最後にお前を殺してやる」


 空から灰が降ってきた。……違う、灰じゃない。初めて彼と会った時と同じだ。彼の背後に、大きな翼が見える。曇天を覆い尽くすほどに大きな灰色の羽は、猛禽類を彷彿とさせた。これが彼の、本当の姿なのだろうか。


「俺と関わったことを後悔しただろう。今すぐにでも走って家へ帰りたいはずだ。ほら、言え。泣いて喚いて、俺が恐ろしいと言え」


 身体が燃えるように熱い。間近に迫った彼の囂々と燃える心臓と、鬼気迫ったリクの声が混ざって、耳鳴りがする。

 それでもまったく、恐ろしくはない。

 彼に応えようと口を開いて、熱気を吸い込んだ。それでむせると、込み上げてきた唾液で喉が少しだけ潤って、私はようやく、言葉を発することができた。


「言わないよ」


 手を伸ばす。指先が、彼の胸元に触れる。皮膚の焼ける音がして、針に刺されたような痛みが走った。一連の行動を見て、彼が驚きに目を開き、身体をびくりと震わせる。


「まだ出会ったばかりなのに、自分でも不思議だと思う。でも、あなたはそんなことをしないって気持ちあるの。…人に優しくできる。その振る舞いを知っている。そんなあなたが、どうして未だ悪になろうとするのか、私にはわからない。私はまだ子供で、何も知らなくて弱くて…だからきっと、あなたを悩ませていることに対して、あなたが納得をする答えをあげることができない。でも、だからせめて、答えを一緒に探してあげたい。あなたがいつか、穏やかな静寂の中で、眠れるように。あなたの怒りに寄り添いたいって、そう思ったの」


 視界がぼやけるほど近くにいるのに、垂れ下がってきた髪の毛が邪魔で、彼の表情は見えない。焦げた指先からは煙が上がっていたけれど、不思議と痛みはなかった。気がつけば、リクはもう鳴いていない。しばらくは誰も何も喋らずに、静寂が辺りを包んでいる。


「…本当にお前は、理解を超えている」


 やがて、視界が明るくなった。折り畳まれた大きな羽の向こう、相変わらずの曇天がある。身体を少しだけ離して、彼は私の黒ずんだ指先を取ると、自身の口元に近づける。微かな痛みを感じた後、解放された手には、火傷はおろかその痕跡さえ残っていなかった。怪我を一瞬にして治す、なんて、どれほど高度な術なんだろう。


「…生まれてから今に至るまで、数えきれないほど人を殺した。恨みと怒りから生まれた生命だ。それを聞いて出した答えが、寄り添いたい、か。……まったく、不気味な思考だ」


 最後に私の手を引いて起き上がらせ、無事に両足で立ったところを見届けると、彼は気まずそうに視線を逸らした。


「お前みたいなのは初めてだ。正直、どう扱えば良いかさっぱりわからん」

「…またここへ来てもいい?」

「……最初に言っただろう。好きにしろ」


 言葉が変わっている。今度は、明確な許しだ。にこにこしていると、気味が悪いぞと怒られたけれど、表情は変えられなかった。



「…ところでお酒って、食べ物じゃないよね?」

「口に入って味がすれば何でも同じだ」

「そういうものなの?」

「そういうものだ。子供にはわからないだろうが」

「…子供とか大人とか関係ない気がする」

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