第4話 助け舟


「クガ様」


 凛とした声がして、お兄様がぴたりと歩みを止める。視線を上げると、縁側に男性が立っていた。誰だろう、なんて、考えなくてもわかる。だってこの人からはいつも、咽せ返るようなお香の匂いがした。


「……シクラ」


 舌打ちをした後、お兄様が名前を呼ぶ。そんな態度には慣れているのか、男性──シクラは微笑みを携えながら、恭しく頭を下げた。


「お取り込み中失礼いたします。しかしながら、クガ様にはまだ本日中にこなしていただくべき課題が残っておりますので、至急お部屋へお戻り頂きたく」

「…すぐに済む」

「なりません。お父様がお戻りになられたら、きっと落胆なさいますよ。唯一の後継が、この程度の課題をこなせないと」

「ああ、わかった! …わかったから、もう言うな」


 苛立ちを隠さないお兄様を相手に、シクラは全く臆することなく、微笑みを崩さない。仮にも使用人の立場でここまで振る舞えるのは、彼がお兄様専属の家庭教師だからだろう。

 まじない師、と呼ばれる職業が当たり前に存在する世界で、私の家は代々、まじないを用いて国へ利益をもたらす事で繁栄してきた。それは、数時間だけ雨を降らせるといった穏当なものから、先ほどお兄様が並べたような、人に害を為す術まで、種類は様々だ。シクラは、お父様が隣国からわざわざ招いたまじない師で、この辺りでは見ない、透き通るような白銀の髪をしている。雇われている立場ではあるが、彼の代わりを務める人間なんてなかなか見つからない…というのを、お屋敷で働くお手伝いさんが話していた。だから彼の力は、お屋敷内でも確固たるものとなっている。特に、お父様に意見を言える使用人なんて、彼くらいだろう。


「さすが、聞き分けがよろしい。クガ様の目を見張るばかりの成長、シクラは嬉しく思います」

「思ってもないことを。…さっさと戻るぞ」


 お兄様が、乱暴に私を解放する。庭に尻餅をついて、解放された手首をさすっていると、視線を感じた。お兄様は、私なんかには目もくれず、お屋敷の中へ戻っている。そうなると。


「本日は正午過ぎより嵐の予報です。お嬢様もお身体を冷やさぬよう、お早めにお部屋へお戻りください」


 シクラが、驚くほど近くに立っていた。表情は相変わらずで、腰をおり、こちらに手を差し出している。いつ、こんなところまで。気配は、全く感じられなかった。


「…た、助けてくれて、ありがとう」

「何のことでしょう」


 言いながら私の手を取り、引っ張り上げる。身体は簡単に持ち上がって、途中でシクラが力を抜いてくれなかったら、そのまま宙に投げ出されていたんじゃないかと錯覚するほどだった。私が立ち上がったのを確認すると、片手で銀の眼鏡を押し上げて、シクラはにこりとする。


「…なにか、用事?」


 そしてそのまま動かず、こちらをじっと見つめたまま動かないので、不安になった。何か、粗相をしただろうか。お兄様と違って、私はこの人と関わりが薄いから、先ほどのような叱責も受けたことがない。向かい合って話したことだって、数えるほどだ。だから、存在を認知されているのかすら怪しかったのだけど、一応、視界には入っていたらしい。

 声をかけても、シクラは動かない。少しだけ思案して、やがてその手が、こちらへのびる。


「──わん!」


 指先が私の頬へ触れる直前、雷のような轟音がこちらへ迫ってくる。四つの足が、地面を蹴り上げ、砂埃が舞う。綺麗の整えられた庭を乱しながら、白い毛玉が飛び込んできた。


「リク」


 名前を呼んでも、けたたましい声は止まない。声帯が壊れてしまうのではないかと心配になる程、その毛玉は力の限り、シクラに向かって吠えていた。

 シクラは手を懐へ収めると立ち上がり、再び人の良さそうな笑みを浮かべる。そこにはもう、何の感情もない。


「それでは、私はこれで。何かお困り事があれば、いつでもご相談ください」


 最後に一つお辞儀をすると、シクラはお兄様と同じ方向に消えていった。…無害で優しい。優しいように、見える。だから私も、つい委ねてしまいそうになる。

 ふと、足元に気配を感じた。俯くと、子犬のように小さくなったリクが、申し訳なさそうにこちらを見上げていた。


「…怒ってないよ」


 伝えても、リクは小さいままだ。きゅうきゅう鳴る鼻が、何だか痛々しい。


「…ねえ。今日もあそこへ行こうか」

「…わん」

「大丈夫。嵐が来る前に帰ればいい」


 話しかけながら、頭を撫でる。遠慮がちだった態度は次第に解けて、気がつけば、短い尻尾が激しく揺れていた。

 シクラは、この広いお屋敷で唯一、リクが吠える人間だ。今日が初めてではない。シクラを前にすると、リクはいつも、手負の獣のように気性が荒くなる。

 けれど、シクラ本人からは特に、敵意を感じたことはない。悪意だって。だから余計に、不安だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る