第2話 あなたに似ている
──おいで。
おいで、私の可愛い子。
私の言葉をよく聞いて。
これから先、あなたは一人で生きていかなければならない。
あなたを愛してくれる人より、あなたを忌む人間の方が多いでしょう。
だから、これを。
この子を、片時も離さずそばに置きなさい。
あなたの気持ちに応えて、きっといつか、あなたの助けになる。
──ああ。
叶うことなら、あなたと二人、穏やかに暮らしたかった。
きっと美しく成長するはずだった、あなたの姿を見届けたかった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
人を憎むな、とはいえない。
けれどどうか、絶望しないでほしい。
あなたという命に、どうやって報いればいいのかわからない。
こんな世に産み、先に逝く私を、どうか許してね。
愛してる、これからもずっと。
死んだって、一生。
◆
蛇の背中のようにうねる道で、前をいく白い毛玉の後ろ足を追っている。今日は履き物があるし、声も出るから、前回よりも気が楽だった。
「リク、あまり早足にならないでね」
「わん!」
わかっているのか、いないのか。リクは何を話しかけても嬉しそうにするから、いまいち判別がつかない。リクは、お母様が亡くなる前の夜に託された存在だ。抱きしめるとふわふわ不安定で、鼻先は炒めたひまわりの種みたいな匂いがする。
しばらくそうやって、整地もされていない道を歩いていくと、見覚えのある開けた場所へ辿り着いた。家の裏庭から塀を乗り越えて、山へ入って歩き続けたところ。背の高い木々や生い茂る草が、そこだけくり抜いたみたいにさっぱりなくて、真ん中に、大きな岩が一つ。そして傍、ただ一つ生えている、珊瑚みたいな形をした木の上に、やっぱり彼はいた。
「…本当に来た」
服装も姿形も、前回と一緒。一日しか経っていないから当然なんだけど、何だかまるで、彼だけが時を止められてここに存在しているような印象を受けた。気が強そうな眼は、私の姿を見つけると、少しだけ驚いたように開かれる。
「リクに案内してもらったの」
「…まあ、こいつがいるなら辿り着けるか」
「それでね、バケくん」
「バケくん?」
眼がもっと丸くなった。そのままこぼれてしまいそうだ。
「バケモノって呼ぶのは、良くないと思ったから。最初の二文字を取って、バケくん」
「…理解を超えると、言葉も出ない」
「呼ばれるの、いや?」
「断ったところで、もっと妙な名前にされるだけだろう。だったらバケくんでもバケちゃんでも良い」
「バケちゃん」
「くん」
「バケくん」
「良し。ああ、よくはない。折衷案だ。俺がだいぶお前に歩み寄ってやった」
「ありがとう」
「…お前よく、話が通じないと言われるだろう」
「言われたことないよ」
そもそも、あまり話しかけられることがない。お母様が住んでいたあの広いお屋敷で、私とリクの存在はまるで、宙に舞う灰みたいに軽い。
「バケくんは、ここでなにをしているの?」
「別に、何も」
「ここがお家?」
「家じゃない。離れられないだけだ。この鎖が見えるだろう」
言いながら、大きな石を指差す。そこから伸びた鎖が、バケくんの足首としっかりと結ばれていた。不思議だったのは、バケくんを戒める鉄の輪ははっきりと見えるのに、大きな石から伸びる鎖の方は、いくら目を凝らしても終わりが見えないことだった。ぐるぐると何重にも巻きつけられているから、それなりの長さがあることは確かなんだろう。
「お前が生まれるよりもずっと前、人間との力比べに負けた。その代償として、俺はここから離れられない。解除の方法を知っているのはそいつだけだったが、所詮人間だ。もう寿命か病で死んじまっただろう。だから、自由になる見通しもない。…説明していて腹が立ってきた。本当に忌々しい限りだ」
「悪いことしたの?」
「なぜそう思う」
「私もよく、悪いことをして閉じ込められるから」
「……俺は、悪いとは思っていない。生まれた時から、数百年が経った今でもそう思っている」
バケくんが腕を組み、偉そうにふんぞりかえる。きっと今まで何回も同じことを聞かれ、その度に同じ返答をしたのだろう。言葉には自信が満ち溢れていた。
羨ましい。思うと同時にふと、突拍子もない考えが浮かぶ。
「ねえ」
「なんだ」
「私が解いてあげようか」
自分でも、何を言ったかわからなかった。言葉を発したのは私なのに、目の前で固まるバケくんと同じくらい、私も驚いている。なぜ、こんなことを言ったんだろう。私はまだ彼と出会ったばかりで、それに、この鎖の解き方なんて知らない。それなのに、まるで今すぐにでもできるみたいに、溢れた言葉は確信に満ちていた。
どうしよう。私が次の言葉に困っていると、長く吐き出された息の次、大きな声が聞こえた。大きな口を開けて、尖った歯を見せつけながら、バケくんはお腹を抱えて笑っている。
「おもしろい。今までのふざけた会話で、いちばん愉快だった」
「…じ、冗談だと思ってる?」
「当たり前だろガキ。わざわざこんなところへ一人できて、俺を笑わせにきたんだろう。なんて甲斐甲斐しい。だがもう十分だ。さっさと帰れ。そしてもうここへは近づくな」
「ま、待って」
しまった。大きな声で笑っているけれど、わかる。この態度は結構、怒っている。機嫌の悪い人ばかりがいるお屋敷で暮らしているから、そういう感情には敏感だ。私は慌てて彼を引き止めようと手を伸ばして、
「……」
その手が彼の羽織を掴むよりもはやく、私の意思を察したリクが、彼の前に座り込んでいた。
「…おい、邪魔だ」
山のように大きな身体は、彼の文句なんて聞こえないように振る舞っている。今が絶好の機会だ。私は早足で駆け寄ると、懐から巾着を取り出した。
「あの」
「何だ。弱いくせに徒党を組んで俺を困らせるな」
「ちがう。今日は、これを渡したくて」
声をかけると、面倒くさそうにしながらも振り返る。無視をされるほど嫌われたわけではなかったようで、それに少し安心した。どんな相手でも、ひどい態度を取られると、心が痛くなって、胸が苦しい。
「昨日、声を返してくれたでしょう。だから私も、バケくんに贈り物をする」
言いながら巾着を解いて、中から色とりどりのガラス玉を取り出す。透き通った身体は、雲の合間からわずかに差し込む光を受けて、何倍にも眩しく輝いた。色々な光の渦が混じって、手の内に水面ができたみたいだった。
「私の宝物。全部あげる」
「ただのビー玉だ」
「きれいでしょう。中でも、これが」
片手には収まらないから、いくつかを巾着の中へ戻して、残ったうちの一つを摘み上げる。赤い流線に、金箔が固められたそれは、頭上にかざして見ると、やっぱり。お屋敷で感じた通り、よく似ている。
「いちばん美しくて、バケくんに似合うと思ったの」
バケくんは腕を組んで、しばらく何かを考え込んでいた。先ほどと同じ態勢だけど、自信に満ちているわけじゃない。表情はやっぱり、険しい。私と言う存在は、彼を困らせることの方が多いみたいだった。背後でリクが、もう十分に働いたという顔をして、大きな欠伸をしている。
「受け取ってくれる?」
「……いや」
返事が繰り出されるまでに、少しの間があった。やがて短い言葉と共に、大きな手がゆっくりとこちらへ伸ばされる。期待に反して、掴んだのは差し出した巾着ではなくて、私が摘みあげた、ただ一つだった。
「これだけでいい」
「…全部あげるよ?」
「これがいいんだ。俺がそう言っているんだから、納得しろ」
灰色の手の内に収まって、赤色は変わらず輝き続けている。そこにはもう戸惑いなんかなくて、ただ眩しそうに、光を反射するガラス玉を見つめる横顔があった。
「お前には俺が、こう見えるか」
ぼうっと見惚れていたから、すぐに返事ができなかった。声の代わり、何度も何度も首を降って頷くと、そんなに必死にならなくていい。バケくんが鼻を鳴らした。
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