灰の王と忌み名の子
でかくてつよい鳥
第1話 空から灰が降ってきた
空から灰が降ってきた。
宙を漂うそれをつかまえて、手に閉じ込める。そこでようやく、いま自分の手に入れたそれが、灰なんかではなくて、絹よりも細い羽なのだということに気がついた。頭上へ翳すと、燻る雲に覆い尽くされた空が見えて、その中で何より鮮やかな彩度を放つ、二つの深紅と視線が交わる。
「見てんじゃねえよ」
知らない挨拶だった。私の方は、昔お母様に習った通りぺこりと頭を下げると、燃える瞳の持ち主は不愉快そうに鼻を鳴らして、木の上から軽々飛び降りて着地する。肘までずり落ちた羽織と、銀色の装飾品。黒い髪が風に靡いて、その隙間から先ほどの瞳が覗いていた。身軽な動作とは釣り合わない、足首を戒める太い鎖が、地面を打って埃を舞い上げる。
「お前、人間だろ。人間なんて数百年も見ていない。どうやってここへ辿り着いた」
「……」
「しかもお前、とびきり弱いな。羽虫と同等だ。この状態の俺でも、少し触れれば四肢がばらばらに弾けて跳ぶだろう。やって見せようか」
「わん!」
「……わん?」
こいつ、人間ではなかったのか。一瞬そんな表情になって、それからようやく、彼は先ほどから自身の足元へ纏わりついている毛玉に気がついたらしい。ああ、とか、くそ、とか。短い悪態をいくつか吐いて、一瞬の躊躇いのうち、ご機嫌に尻尾を振る毛玉を乱暴に抱き抱えると、再びこちらを向く。
「なんだこいつは、お前のか?」
「……」
言葉の代わり、小さく頷いた。先ほどから声を発さない私を見て、何か不審に感じるところがあったのだろう。彼は、好き勝手に並べた自身の物騒な言葉へ、充分な説得力を持たせるほどに鋭い爪を備えた指で、不釣り合いなほど優しく毛玉を地面へ下ろす。この後に及んでも、何の危機感も感じていない四本足は、今度は私の前でひっくり返って、しきりに撫でろとお腹を見せていた。無事に戻れたら、少しだけお説教が必要だろう。
「声を発せないのか」
「……」
「…低俗なまじないがかけられているようだ。おい、こっちへ来い」
躊躇ったのは数秒だけで、次の瞬間にはおとなしく、私は言われた通りに足を踏み出す。素足が砂利を踏み締めて、足の裏の傷が痛んだ。少し距離を詰めて向かい合うと、彼は私よりずいぶん高いところにいて、背丈はきっと、お父様よりも大きかった。まるで月を眺めるみたいに顔をあげていると、彼が人差し指をこちらへ差し出し、無防備にさらした喉へ、爪の先端を突き立てる。ちくりとした痛みが走って、それでも私は動かない。
というより、動けなかった。間近で見た、頭上に並ぶ二つの深紅が、今までに見た何よりも美しかったからだ。それは、絶えず爆発を繰り返す惑星のようで、怒りに任せて燃え盛る溶鉱炉のようでもあって、休む間もなく輝きを変える。宝石ではない。宝石が、こんなに人を慄かせる光り方をして良いはずがない。きっと彼は、この世の全ての怒りを背負って生まれたのだろう。そうでなければ、ただ並ぶ二つの水晶体に、こんな力は宿らない。
命の危機が迫る中で、それでもじっとしている私を見て、興が削がれたのだろう。彼は爪を皮膚から離し、そのまま横にふる。すると、今まで身体を覆っていた嫌な気配が消えて、身体がふっと軽くなった。
「……あ」
声が、出る。何日ぶりだろう。少しだけむせながら、それでも私が必死に発音を取り戻す間、彼は一言も発さずに待っていてくれた。放置されて退屈を持て余した毛玉は、バフバフと鼻息を荒くしながら、しきりにその辺りの植物へ顔を突っ込んでいる。
「あ、…あり、がとう。ございます」
「弱いとは悲しいな。その程度のまじないにも脅かされる」
「あなた、良い人」
「……はあ?」
まさかそんなことを言うとは思わなくて、きっと青天の霹靂だったのだろう。頭上から冷や水をびしゃびしゃにかけられた時みたいに、彼が目を丸くして固まる。
「声を返してくれたし、リクも吠えない」
「…この毛玉のことか?」
「リクはお母様が残してくれた私の友達で、悪い人に向かって吠える」
「…この俺を前にして、吠えるどころか尻尾を振っている時点で効果は怪しいな」
「間違ってない。あなたは良い人」
「断じて違う。俺は悪だ」
「そうなの?」
「そうだ」
「じゃあ、悪いけど良い人なんだ」
「破綻してるぞ」
「そうなの?」
「そうだ。俺が言ったことを忘れたのか」
「私が羽虫という話?」
「違う。羽虫くらいの力と言ったが、お前が羽虫だとは言っていない」
「そうなの?」
「そうだ」
「わかった。私、羽虫じゃない」
「…四肢を飛ばすと言ってきた相手を前にして何も変わらず話ができるなんて、お前はどこかおかしい。普通は逃げ出すはずだ。見た目もこれほど、醜悪なんだから」
言いながら、彼は自身の手のひらを強く握りしめる。大きな手の指先は黒ずんでいて、よく見ると、周辺の皮膚が爬虫類のような鱗状になっていた。見つめる瞳は、変わらず燃えるようだ。それでも、その光に何か、哀しみに似たものを感じる。…なぜだろう。彼の表情は一つも変わっていなくて、私はまだ、気持ちを慮れるほど、彼のことを知らないのに。
…そうか。
「それは、そうなのかも。よく言われるから」
多分、似ているからだ。彼の痛みはわからない。けれど、自分のことならよくわかる。仕草を真似して、私も手のひらを握る。爪の間には土が詰まっていて、皮膚には無数の細かい傷。言葉を受けて、彼が鼻を鳴らした。
「やっぱりな。きっとこの辺りでも有名な変わり者だろう、お前は」
「私は、醜悪。最近覚えた言葉だから知ってる」
「……何?」
「生まれてくるべきじゃなかったって言われた。存在自体が災いだって。だから、私はもっと、あなたみたいに美しければよかった」
「……」
言葉を失った。彼は口を微かに開いたまま、微動だにしない。周辺の木々が、風もないのにざわざわと揺れる。
「……さっぱりわかんねえ」
しばらくそうやって黙っていて、ようやく口を動かしたかと思えば、今度は乱暴に頭をかく。もうお手上げ。そんな態度が、全身から滲み出ていた。何日考えたってわからない問題と対面した時みたいだ。私もお父様から与えられた課題をこなす時、きっとこんな顔をしている。
「俺はお前のことなんか知らない。だが、醜悪は俺だ。人間の恨みから生まれた、この存在こそが悪だ。だから決して、お前を指す言葉じゃない。お前には意思がある。年不相応に達者な舌がある。生意気にも俺を対等に見下す両目もある。ここまでたどり着いた運も。それに、お前の瞳は俺と違って」
手が伸びて、冷たい肌が私の頬に触れる。俯いていた視線を上げると、戸惑いに揺れる目が私を見下ろしていた。彼はやはり、難しそうな顔をして、何かを言いかける。しかし、それはすぐ喉の奥にしまわれて、その存在ごと、私から離れていった。
「……やっぱり、いい。疲れた」
寝る。言い残して、彼が元々いた木の上へ飛び上がる。そうして、よくしなった枝の上に寝そべると、私の方に背を向けた。今まで好き勝手に周囲を探索していた四本足の毛玉──リクが、ようやく戻ってきたかと思うと、尻尾を振りながら、名残惜しそうにそれを見上げている。
「ねえ」
「何だ。帰れ」
「またここへ来ても良い?」
「……べつに」
否定ではない。それなら少しの許しを得た。新しい出会いは久しぶりで、少しだけ胸が明るくなる。
「ねえ」
「何だ。まだいたのか」
「あなたの名前は?」
一つ、風が吹いた。そういえば、あの時拾い上げたはずの羽は、どこへ行ってしまったのだろう。手の中に閉じ込めていたはずなのに、いつの間にかなくなっていた。雲が流されて、少しだけ垣間見えた太陽に、目が眩む。耐えかねて手をかざすと、逆光で表情の見えない彼が、こちらを静かに見下ろしていた。
「──俺に名前なんてない。どうしても呼びたければ、バケモノで良い」
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