第2話




「大丈夫ですか!」


 誰かの声が聞こえる。

 それは徐々に鮮明になり、やがて玲瓏な女性の声であると分かる。

 誰かが俺の身体を揺さぶりながら、声を掛けているようだった。

 のしかかるような倦怠感を跳ね除け、ゆっくりと目を開ければ、真っ白な肌色が視界に飛び込んでくる。

 彼女は全裸の少女であった。

 雫を滴らせる起伏に富んだ肢体、しとどに濡れた黒髪、精緻に造られた人形のような整った美貌。

 宝石のような紫紺の瞳に切羽詰まった様相さえなければ、きっと絵画の一枚のように映った事だろう。

 だが、見蕩れている余裕など今の俺には無い事を思い出す。


「げほっげほっ!?」


 一瞬、面食らった後、込み上げてくる異物感に咳を繰り返し、口から水を吐き出す。

 その度に塗炭の苦しみが胸を襲い、視界が真っ白に染まる。裸が云々だとか、どうでもいいから、この痛みを何とかして欲しい。


「・・・・・良かった。息はあるみたいですね。」


 少女はほっと息をつく。

 まったく良くない。

 余りの苦痛に反駁した気持ちに駆られるが、当然、そんな力はない。

 荒い息を吐きながら、倒れた犬のようにぐったりと横たわる。


「落ち着きましたか?」


 暫く時が経ち、咳も収まった頃、包み込むような柔らかな声が掛けられる。

 俺は剥き出しの岩盤に横になったまま、視線だけを少女に向ける。

 穏やかな目でこちらを見守る彼女の姿は比喩抜きに女神のように見えた。


「あ、ありがとう。」


 震える唇で礼を言う。

 すると、彼女はゆっくりと首を横に振った。


「気にしないください。それより身体は大丈夫ですか?駄目そうなら、すぐに医者を呼んで来ますが。」

「・・・・・大丈夫だ。ちょっと疲れてるだけだから。」

「そうですか。それなら少し待ってて下さい。服を着たら、屋敷の方に連れて来ますから。そこで体の温まる物を提供しましょう。」


 そう言って、立ち上がる少女。

 彼女の白い肌を改めて目の当たりにし、俺は彼女が裸であったことを思い出し、慌てて目を閉じる。

 これでも人の裸を覗き見する下衆ではないつもりだ。

 妄想を掻き立てる衣擦れの音を心頭滅却して、無心で乗り切り、彼女の屋敷へと運ばれた。

 そして、彼女から渡された着替えに袖を通し、温かなお茶を一杯ご馳走になって、現状に対する説明を聞くことになった。


「私は桐生結花。この唐傘村を治める領主です。」


 案内されたのは広々とした和室。

 そこで白の着物を纏う結花と対面する。

 改めて見る彼女はやはり美人であったが、それよりも不思議な威厳を兼ね備えていて、何か神聖なもののように思えた。


(領主?)


 聞き慣れない言葉に一瞬、眉を顰める。

 勿論、言葉自体は知っている。戦国大名とか、西洋の貴族とか、特定の地域を治めている人間の事だ。

 しかし、現代日本においては滅多に使われる事の無い単語である。

 その言葉を何故、今?

 そんな疑問が脳裏に浮かぶが、話の腰を折りそうなので口にはしなかった。

 代わりに名乗りを返す。


「出雲龍次です。この度は危ないところを助けて頂いて、ありがとうございます。」


 誠心誠意の感謝の言葉の後に深々と頭を下げる。

 今日まで生きている事の大切さをあまり感じたことはなかったが、死にそうになって初めてそれが如何に大切なのかという事を知れた。

 その機会をくれたのは他ならぬ彼女だ。

 彼女がいなければ、俺は今頃、水死体となって、水の上に浮かんでいる事だろう。

 学生の時分なのでお金などは払えないが、せめて感謝は伝えたかった。


「気にしないで下さい、と言いたいところですが、一つだけ質問が有ります。」

「なんでしょうか?」

「貴方は私の屋敷に忍び込んだのですか?」


 結花は柳眉を下げながら尋ねる。


「そんな犯罪みたいな事やってないです!海で溺れてた筈がいつの間にかここに居て・・・・・」


 何処か困った様子の彼女に俺は大慌てで弁明した。

 俺が先程まで居たのは鍾乳洞のような地下湖。そこから直接、屋敷に連れられてきたのであそこは結花の所有地だろうと推測出来る。

 ただ、そんな場所に入った覚えはなかった。

 本当に気が付いたら、あそこに居たのだ。

 その事をしどろもどろな説明と慌ただしい身振り手振りで伝えると、結花はふっと唇を曲げる。


「信じます。私も貴方が自分からあそこに入ったとは思っていません。」


 包み込むような声音を使う結花。

 その柔らかな態度に拍子抜けした俺は肩から力を抜き、ほっと息を吐く。


「ただ、あの『禊の泉』は当家にとって重要な場所ですので、どういう事情があれ、侵入者が出たのなら訳を聞かない訳にはいかなかったんです。気分を害したならごめんなさい。」

「い、いえ、大丈夫です。気にしてないですから。」

 

 というか、疑うなという方が無理な話だ。

 客観的に見て、俺が不法侵入者なのは確かなんだし。

 ある意味、この程度の疑いで済んだのは相手が結花だったからだ。

 彼女が冷静にこちらの意見に耳を傾ける度量を持っていた事に感謝しつつ、俺は未だ残る疑問に焦点を当てた。


「それより、どうして俺があそこに居たのか、心当たりがあったりしませんか?」


 さっきも言ったが本当は海にいたはずなのだ。それがいつの間にかあの泉に居た。波に流されたにしても不自然な話だ。

 そう考えた末に尋ねると、結花は薄い唇を結んで、思案げに押し黙る。

 静謐な眼差しのせいか、或いは重たくのしかかる沈黙のせいか、長閑であった空気に冷気の針を通したような緊張が走った。


『恐らく、何処ぞの神に魅入られたのだろう。』


 そこにいかめしい声が響き渡る。

 驚いて、声の主を探すも部屋には俺と結花以外の人影は一切、見当たらない。


『そちらでは無い。』


 自分はここに居るぞ、と言わんばかりの声の方に改めて視線を定める。

 そして、思わず声を張り上げた。


「か、刀が喋った!?」


 そこにあるのは一本の刀。

 背中を反るようにして伸びる長い刀身、青みがかった灰色の鞘には影のような斑模様が浮かび、そこに結ばれた黒い下緒さげおが尻尾のように刀掛けから垂れる。

 まるで一匹の隼を模して造られたような刀だ。

 だからだろうか、俺は刀が不思議な生命力を宿しているように感じ、声の主は刀であると突拍子も無いようなことを考えてしまった。


『ただの刀ではない。天下の名刀、隼影しゅんえいである。発言にはくれぐれも気を付けよ。』


 半信半疑の中、駄目押しのように偉ぶった声が聞こえた。

 間違いない。あの刀が喋っている。

 疑いの半分は確信に変わり、もう半分は驚きへと変化を遂げた。


付喪神つくもがみを見るのは初めてですか?」


 結花が言う。

 俺は怪訝に眉を顰め、言葉を繰り返すようにして、聞き返した。


「付喪神?」

「物に宿る霊体の事です。長い年月を経て、自我を獲得したものや物を媒介に神や鬼を降ろしたものが有りますが、その両方とも付喪神と呼ばれています。」


 懇切丁寧に説明してくれる。

 とはいえ、内容は既知のものであったりする。昔、日本の宗教である神道について調べた事があったので、八百万の神や付喪神の言葉の意味ぐらいは知っていた。

 俺の驚きと唖然の対象は、その存在が現実として実在し、鬼や神などといった迷信じみた何かの存在さえ言葉の端から示唆されている状況に対して向けられたものである。

 手っ取り早く言うなら、そんなものが居るとは思ってなかったのだ。


『私の話は良い。それよりも貴様だ。』


 何処からともなく強い視線を感じ、俺は身を強ばらせる。


『貴様から人間のものとは異なる霊力を感じる。それもそこらの妖や霊体とは比較にならないほど強力な。』

「どういう意味ですか?」

『端的に言えば、混ざっている。貴様の魂と何者かの霊魂が結び付き、渾然一体となって調和している。』


 隼影と名乗る刀の言葉に怖気が走った。

 まるで知らぬ間に自分の全く知らない薄気味悪い寄生虫が体に蔓延っているような心地がした。

 不安に駆られた俺は縋るような声で尋ねる。


「それって大丈夫なんですか?」

『さてな。呪われているようには見えんが、ただ憑かれているだけではこうはなるまい。何らかの因果に巻き込まれたと思って、常々、用心しておく事だな。』


 まるで脅かすように告げる。

 たちが悪いのは脅した後に何も要求してこないことだ。金や肉体労働を求めて来たのであれば、嘘八百を並べて、騙そうとしているのだと分かるが、何も言わなければ、こちらはその判断さえ出来ない。

 ただ来るかどうかも分からない恐怖と戦い続けることになる。


「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。脅かすようなことを言ってますが、実際にそうなる確率はかなり低いでしょうから。」

「そうなのか。」

 

 敬語を取り繕うことも忘れて、ほっと安堵の息を吐く。

 一人でに話す刀があるのだ。呪いや予言もなまじ嘘だとは言えない。割と本気で安心していた。

 そんな俺を見て、結花はくすりと喉を鳴らし、言葉を続ける。

 

「やっと肩から力を抜いてくれましたね。」

「あ、すみません。」

「いえ、今みたいに素で話してくださって結構ですよ。その方が私も楽しいですから。」

 

 さして気にした様子もなく、楽な物言いを勧める。

 これが人の上に立つ人間の寛大さか。俺は彼女の懐の深さに感嘆しつつ、「そう言うなら」と勧めに従うことにした。

 相手が良いと言っているのに、迷惑だからと断り続けるのは相手の面子を潰す事になるからな。

 

「それで今晩、泊まる場所は決まってますか?無いのなら是非、ウチに泊まって下さい。腕によりを掛けて持て成しますよ。」

「流石にそこまで迷惑にはなれない。電話を貸してくれれば大丈夫だから。」

 

 ここが何処なのかは分からないままだが、位置情報と電波が有れば、母さんが迎えに来てくれる筈だ。

 だが、直面する事態はその予想を遥かに超えて起きていた。

 

「デンワ?新しい飛脚の呼び方とかですか?」

 

 怜悧な目をぱちぱちと瞬かせた後、こてんと細い顎先を斜めに傾ける。惚けている様子はなく、本当に聞き覚えのない言葉を耳にしたような反応だった。

 

「え?」

 

 いつかではない。

 もう既に俺は大いなる運命の潮流に巻き込まれていたのである。

 


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