第05話 泥沼の遺跡

 泥沼はどこまでも広かった。

 毒々しい色合いの蛇や、イボだらけの蛆虫のような何かが、泥のなかでねっとりと這いずっている。

 どういった生き物なのかはジェドクにも分からず、毒がない保証はどこにもない。

 唯一、城へと続く迷路のような石組みのみちだけが、安全に歩けそうな足場だった。


 鎧の見張りたちが背を向けて遠ざかっていくのをみはからい、ふたりは石組みの路を進みはじめた。

 崩れ、沈んで、広々と余裕はないものの、乗馬を歩かせるだけの幅はある。


 アルフィーナの乗馬は、引かれるままに大人しくついてきたが、ジェドクの荒馬は嫌がってなかなか進まなかった。

 おびえているわけでも、他の理由があるわけでもなく、意地の悪そうな目つきからして、わざとジェドクを困らせようとやっているとしか思えない。


「大人しく来なさい! あのばかでかい虫に刺されたいんですか!」


 ジェドクが力任せにひっぱっても、荒馬はやすやすと抗い続ける。本当に嫌ならジェドクを引きずって行くこともできるだろうに、あくまで危険な路の上で、根を生やしたように動かなかった。


「魔法でどうにかできないのか?」

「効かないんですよ、こいつは、魔物の血が入っていますから、動物を操る魔法じゃ動かない」

「魔物を操る魔法なら?」

「それならありますが、確実には効きません。その上こいつは半分馬で、魔物でもない。たぶん、効きませんよ!」

「たぶんなら、ひとつ試してみたらいいじゃないか、ジェドク」


 ジェドクは汗だくの顔で息を切らしながらふりかえった。

 部屋中ひっかきまわして探していた物が、自分の隠しに入っていたのを見つけたような顔だった。


「やってみましょう」

 ジェドクは荒馬の鼻面に手をあてて、息を整え、口の中で呪文を唱えた。手から紫の光があふれる。

 荒馬は嫌そうに身じろぎしていたが、不意にその意地悪そうな目がとろんと濁り、全身から力が抜けて大人しくなった。


「……かかった!」

 よほど嬉しかったのだろう、驚くほど溌剌とした声でジェドクは叫んだ。

「行きましょう、この魔法は長くは保たない!」


 アルフィーナはうなずき、先に立って馬を引いて小走りに駆けだした。ぼんやりと従順になった荒馬を引いて、ジェドクが続く。


 ちらりと横目で確かめると、泥沼のかなたで、錆びた全身鎧の戦士たちが、不器用に脚を踏みかえながらこちらに向きを変えはじめたところだった。

 泥をかきまわすように足を引きずり、ゆっくりとふたりのほうに向かってくる。


 巨大アメンボたちは、すでにふたりに気づいていた。細長く三十センチほども伸びた口吻を突き出し、羽音も高く翔びまわっている。


「血を吸うかな、こいつら」

「吸ってもおかしくないでしょうね、あのとんがった気持ちの悪い口からして!」

 ジェドクは身震いして肩をすくめ、さらに舌打ちをもらした。

「……行き止まりですか!」


 城まで続いているかに見えた石造りの路は、城の手前で崩れ、泥のなかに沈んでいた。

 泥沼からわずかに顔を出している石を踏んで進めるかもしれないが、どこまで確かか分かったものではないし、馬は間違いなく渡れない。


 路が沈んだ浅瀬には、細かな虫がうじゃうじゃとうごめき、不気味に色鮮やかな大トカゲが何匹も這いまわっている。

 トカゲは大きく口を開けては、泥水ごとあごで虫をすくって咀嚼し、呑み下す。そのとき見えた口のなかには、どんな硬い骨でも噛み砕けそうな牙が並んでいた。


「さっきの十字路まで引き返そう。ここからは見えないが、城の向こう側で続いているかもしれない」

「だが、その前にあいつらを倒さないとまずいようですよ」


 すでに全身鎧の戦士たちがふたりのもとへ近づいてきていた。

 あいかわらずゆっくりとした足取りで、包囲の輪をせばめながら、腰の大段平に手を伸ばす。

 とてつもない軋みをあげて引きだされた刃は、黒ずんだ赤い汚れがびっしりと絡みついている。


 アルフィーナはギミアを抜き放った。飾りけのない細身の刃、黒と銀の不思議な組み合わせ模様が、黄金の輝きに包まれる。

 ジェドクも腰の短剣を抜いた。そのかまえ、足の配り、武器としての使いかたを心得ている。右手で油断なくかまえながら、左手で印を切る準備をしている。


 全身鎧の戦士たちが吠え声をあげた。沼地に波紋が広がり、頭上の木立が震えあがった。

 それまでの鈍重さが嘘のように、ふたりめがけていっせいに駆けよってくる。


 アルフィーナはギミアをふるい、ジェドクは呪文を唱えて左手を突きだす。


 緋色の爆発がつぎつぎに花を咲かせる。戦士たちの兜が炸裂し、沼地に飛び散る。


 すでに察していたことだったが、鎧の中身は人間ではなかった。

 黒い、ぬらぬらとした、人間のようなシルエットの塊だ。ぐねぐねと柔らかく自由に動いて、鎧を中から操っている。


 アルフィーナの斬撃が、鎧を紙のように切り裂いた。鎧だけでなく、なかの塊まで切り裂き、上下泣き別れのまっぷたつにする。 


「ジェドク!」


 アルフィーナは突き飛ばした。戦いに乱入してきた巨大アメンボの口吻から、ジェドクを逃がす。かわりにアルフィーナの袖がひっかけられ、引き裂かれた。


「……何をやってるんですか、あなたは!」

 身をたてなおして、ジェドクが叫ぶ。

「何って……お前が後ろ首から串刺しにされて死ぬところだったぞ!」

「私を護って? いったい馬鹿ですか、あなたは!」


 ジェドクは雷光をまとわせた短剣で魔虫を切り払い、アルフィーナに詰め寄る。


「あなたは一国の王女さまで、当代のギミアの継承者でしょう!」

「それがどうした! お前はあんな変な虫に首を刺されて死にたかったのか!」

「そんな死にかたはぜったいに嫌ですが、あなたが死ぬよりはましです。貴賎とはそういうものでしょう?」


 ジェドクは左手で印を切った。風の渦が巻き起こり、近づこうとした巨大アメンボたちを粉砕する。


「甘すぎる。為すべきことを為しなさい。必要なら、私を踏み台にして生き残るべきです、黄金の勇者アルフィーナ!」

「そんな生きかたはぜったいに嫌だ!」


 アルフィーナがすかさず言い返すと、ジェドクは口をぽかんと開けた。乱戦の喧騒のさなか、アルフィーナを凝視する。


「もう、馬鹿ですか、あなたは!」

 ジェドクは困惑をぶつけるように、魔法の炎をまきおこし、鎧戦士たちを灼き焦がした。


「馬鹿でいい!」

 アルフィーナはギミアで斬りおろし、最後の鎧戦士をたてにまっぷたつに切り裂いた。

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