第03話 相談役魔術師

 蔵書室に入ると、濃厚な闇が肌身を撫でる気配が全身をつつみこんだ。

 アルフィーナは思わず息をとめ、まわりを見回す。多数の魔術書を腹におさめた書棚は、それ自体が無言でたたずむ異形の命のようだった。


 書棚の前を歩いていくと、忍び笑いや高笑い、吠え声、うなり、カタカタと歯を鳴らす音が蔵書の奥から漏れ出でる。

 一回はあきらかに書物の一冊が書棚を逃れるように身じろぎをして抜け落ちた。

 アルフィーナは恐る恐る手を伸ばし、その本をもとの場所に戻した。

 押しこまれるのを嫌がるように重くなったが、左右の本が自分たちから隙間を空けて入れやすくしてくれたように思えた。


 不意にはっきりと、どこからか不気味なうめき声が聞こえた。耳を澄ませば、かすかなページを繰る音がする。

 魔術書たちの不思議なささやきではない。


 いくつかの書棚をまわりこむと、古びた机が置かれた仕事場らしきが見えてきた。

 細身のブーツを履いた長い脚が、机の上に投げだされている。


 ならず者のような行儀の悪さに、アルフィーナは眉をひそめた。

 気配を殺して回りこむと、ふたたび不気味なうめき声が聞こえ、癖のある黒髪の頭が揺れ動いた。

 そして彼の手にある本も。


「……ずいぶん楽しそうじゃないか」


 アルフィーナの声が怒りに震えた。

 その男が広げていたのは、魔術書でも古文書でもなかった。

『サンディエルの話芸考察』。ある学者が王国の各地を訪問し、その地の芸人たちが演じる滑稽話をそのまま書きとめて記録したものが収まっている。


 本の半分以上は滑稽話を比較対照し、小難しい見解を述べたものだが、面白い話だけ抜粋した本や、物語の形に書き改めた本、子供向けの絵物語にした本まである。

 魔術師が読んでいたのは原本だったが、さきほどから聞こえていた不気味なうめきは、彼がこらえていた笑い声だったのだ。


「そんなものを読んでいるとは、もう呪いを解く方法は分かったんだろうな!」

「分かってませんよ、そんなもの」


 相談役魔術師ジェドクは、本を閉じて肩をすくめた。机から足を下ろそうとはしない。

 だが、真正面から見た彼の顔は、思いのほか上品な美男子だった。

 年は二四か、五か、それくらいだろう。くっきりとした黒い眉の下で、暗赤色あんせきしょくの瞳が輝いている。

 したたかな自信とともに、並外れた知性が感じられる瞳だった。


「シルヴァン族の皆さんは、新式の魔術にはとんと無知でいらっしゃる。私ひとりで何もかも調べなきゃいけないんですよ。オーガン様だってすぐさまどうこうなるってわけじゃないし、頭休めに軽い読み物を楽しんでどこが悪いんです。だいたい君は誰なんですか、いきなり現れて無礼な口をきくお嬢さん」


「す、すまない。私の名は」

「アルフィーナ・サン。伝説の剣ギミアを受け継ぐサンディエルの王女さま」

 ジェドクは黒い長衣のすそを揺らして脚を組みかえ、アルフィーナを見つめた。


「黄金の勇者、アルフィーナ」

「……知ってるんじゃないか」

「金髪碧眼、戦士の装い、年のころなら十七、八、この蔵書室に平気で奥まで入ってくるよそからのお嬢さんが、ほかにシルヴァイン砦においでになるとは思えませんからね」


 そこでジェドクは、アルフィーナににやりと笑い、机から足を下ろした。


「さて、今ごろいらして、いったい何をなさろうというおつもりですか。ああ、魔族のやからに御用でしたら、そう、たしか五日ほど前の夜に、このシルヴァイン砦からはすでに立ち去っておりますが?」

「う……すまない」

「魔族にたいして、絶対の力を持つ剣とはいえ、今そこになければ何の脅威にもなりませんね。おかげで今私が苦労している」

「してないじゃないか!」

 ジェドクは平然とアルフィーナを無視した。


「その剣の力で、あの魔族の居所とか突き止められないんですか。魔族の血の呪いを解くなら、蔵書の山をあさるより、かけた相手を倒すのが一番確実なんです」

「そんな便利な力が、本当にあったら、いいのにな……」


 アルフィーナは肩を落とした。

 ジェドクは面倒くさそうにため息をつくと、やたらと黒い髪をかきまわした。


「ま、とりあえずそちらにお坐りなさい、黄金の勇者さま」


 ジェドクはそばの椅子をあごでさした。

 かたわらのワゴンをひっぱり寄せて、ポットに茶葉を無造作に放りこみ、水差しの水を注ぐ。中身はたしかに水だったはずだが、カップを差し出されたときには、茶は熱い湯気をたてていた。


「断っておきますが、アルフィーナ様。私は完全に怠けていたわけではありませんよ」


 ジェドクは机の上の大きな書物を示した。分厚い表紙は革張りで、鉱石を埋めこまれた金属の飾りが、本を縛りあげるようにはまっている。


「特定の者にしか読むことを許されない禁読書きんどくしょです。条件は完全には分かりませんが、内部の知識を利用するにあたって間違いのないよう、いくつかの資格が定められているようです」


「読めない……ということか?」

「読めないものをあてにして何になるんです。だから読めるようにしてるんですよ」


 本の下には大きな紙が敷いてあり、黒や赤のインクで細かい暗黒文字がびっしりと書きこまれ、魔法陣を形成していた。


「私は条件に合いませんが、それでも読めるようにしています。まあ、術に干渉して裏口をつくって不正をするわけですが、いちおう人助けのためにすることですから、バチはあたらないと信じましょう」


 ジェドクが説明している間に、紙に書かれた魔法陣が青色に輝きはじめた。

 ガラスが砕けるような音がして、禁読書が青白い光につつまれた。

 書物を縛りあげた飾りが柔らかくうねり、リボンのようにほどけていく。


「さあ、邪魔をしないで。せいぜい二十分ぐらいしか読めないんですから」

 ジェドクは書物を手元に引き寄せて表紙を開き、ページにすばやく目を走らせた。


「こんな厚い本を二十分で読むのか!」

「大丈夫、私はあなたじゃありませんから」


 言いながら、ジェドクの瞳は真剣だ。ページから目を離そうとはしない。暗赤色の瞳が食い入るように文字を追いかけている。

 ジェドクはページを繰っては読み、大きく飛ばして後ろを開き、また前に戻り、あきらかにある情報を探しているようだ。


 禁読書をつつむ青白い光が弱まってきた。書物を封じる金属の飾りがふたたびきしみをあげて縛りあげようとする。

 ジェドクは無理やり表紙を広げながら読み続けた。アルフィーナも手を伸ばし、暴れてもがく患者を抑えこむように本を机に押しつける。


 だが、ジェドクが不意に声をあげて目を覆った。

 アルフィーナの両手にも雷撃らいげきのしびれが疾りぬけた。ページに視線を向けると、まばゆい光の針が突き刺さりそうになってあわてて目を閉じた。

 強烈なばね仕掛けのように本が跳ねあがり、封印の飾りがもとどおり巻きついて緊めあげた。机の上にドスンと落ちる。


 アルフィーナとジェドクは同時に息をついた。

 ジェドクの両目は、白目まで赤くなっている。アルフィーナはすぐに水差しの水で手巾を濡らし、ジェドクに渡した。

 ジェドクは受け取り、軽く掲げて感謝を示し、両目にあてがった。


「分かりましたよ、アルフィーナ様」

 しばらく目を冷やしてから、ようやくジェドクはうめいた。


廃都はいとレムリアです。そこに古き力を秘めた井戸があります。その水を使えば、あらゆる魔力をすすぎ清めることができる。魔族の血の呪いも例外ではありません」

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