三月、終章



 三月十一日。その日、何もかもが変わってしまった。

 唯とともに寄り添うようにして、地震の後島で避難生活を送った。命が無事だったことが、今でも信じ難いような経験だった。

 幸い、この島での死者は一人もいなかったらしい。けれど島の半分近くが津波にのまれて、松の木や家、色々なものが流されて形を変えて、多くの思い出は失われて『瓦礫』という名前のものへと変わってしまった。

 電気も水道も中々復旧はせず、避難場所だった学校にみんなで身を寄せ合って、支援物資として届いたパンやバナナを食べた。

 船はとても出せるような状態ではなく、島は孤立し、ヘリコプターで色々なものが運ばれてきた。いつ島の外へ出て家に帰れるのかといえば、まったく目処が立たない。

 三月だというのにしんしんと降り出した雪。唯と二人で毛布に包まって座ったけれど、体の熱は寒さで奪われていった。

 会社の方は大丈夫だったのだろうか。携帯電話は中々繋がらず、それさえもわからない。両親からは災害時の伝言ダイヤルで、無事だと連絡があったけれど。

 ラジオからは被害の状況が語られたり、元気づけるような歌が流れてくる。現状テレビはつかないからラジオでしか情報を得られなかった。その被害の大きさを知る度に、確かめるようにぎゅっと唯の手を握った。





 数えきれない、たくさんの人が亡くなった、そして行方不明のままでいる、とても大きな地震と津波だった。

 テレビを通して映像を見られるようになったのはしばらく後のことだったけれど、その被害の大きさに愕然とする。毎日毎日、死傷者と行方不明者の人数が増えていくばかりで、積み重なっていくその数字の大きさに震える。みんなきっと、誰かの大切な人だった。遠い風景をぼんやりと見つめるように、そう思う。

 僕と唯、そして都宮さんにとって大切だったたった一人の陽影が亡くなってしまったことで、どうしようもないほどの悲しみと絶望感に襲われた。それなのに今、たった一日で、一度で、こんなにも多くの命が失われてしまった。

 僕は生きていた。それはなんて幸運で、罪深いことなんだろう。

 生きたかった人はいっぱいいた。生きていてほしかったと願われる人だって、たくさんいたはずだ。それでも僕は今生きていて、こうして唯と一緒にいる。それならば、ちゃんと生きていかなくては駄目だ。





 しばらくしてから島からようやく船が出て、自宅であるアパートに帰ってきた。唯も一緒にだ。

 先に唯のアパートに一緒に行こうかと言ったのだが、僕のアパートの方が近かったから、唯が先にこっちに行くと言ってくれたのだ。

 久しぶりに帰ってきた部屋の中は何というか、散乱していた。アパート自体が倒壊していなかったのは良かったのだけれど。随分揺れたらしく、本棚からはばたばたと本が落ちていて、足の踏み場もない状態だ。ある程度の地震対策はしていたけれど、あれほど大きくて長い揺れではどうしようもなかったようだ。壁と本棚を繋いでいた地震対策用の紐は切れていなかったが、本棚自体に亀裂が入って崩れてしまったようだった。

「片付けないと、座れないね」

「……だな」

 足元から少しずつ、片付けはじめる。唯も手伝ってくれた。

 アパートは倒壊していなかったし、ガラスも割れていなかった。部屋の中はめちゃくちゃだけれど、片付ければ何とかなるのならばましだろう。家自体が津波に流されてしまったり、あるいは地震の揺れで全壊や半壊したり、そういった家もあるのだから。

 この分だと唯の部屋も大変なことになっているのではないだろうか。唯は押し入れにほとんどの本を片付けているから僕の部屋よりはまだ良いかもしれないが、窓ガラスが割れていたりキッチンの調理器具や皿関係が飛び出して壊れたりしていないか心配だ。後で一緒に片付けに行かなければいけないな、と思う。

 片付けている最中、陽影が飾っていた石が落ちていることに気付く。アゲートは無事のようだが、水晶の結晶は細い部分が欠けてしまっていた。もう元に戻すことは出来ないだろう。そう思うけれど、大切に欠片まで拾い集める。元に戻せなくても、欠けたままでも、これからも飾ったままでいたかった。

 電話が繋がるようになった頃、都宮さんから連絡が入った。連絡することはあるのだろうかと思いながらも都宮さんが会社を退職する前にと連絡先を交換しておいたのだが、良かったと思った。今はお互いにどうしたらいいのかわからなくても、いつか唯と一緒に会いに行けたらと思う。落ち着いたらこの話も唯にしたい。

 会社の方も、怪我をした人はいたけれど、亡くなった人はいなかったそうだ。

 ふと窓から見上げた空は、地震があったことなど露知らずというように堂々と青く美しくて、窓を開けると春のはじまりの冷えた風がひんやりと頬を撫でる。

「『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』みたいだよね」

 唯が隣に立って、同じく窓から空を見る。

「どうしようもなく、現実だね」

「……そうだな」

 夢だったら良かったと何度思っても、どうしようもない現実が押し寄せる。願っても届かないことがこの世界にはたくさんある。でも、だからこそ、見えている確かなものを手を離さず掴んで大切にしなくちゃいけない。後悔をしないように。

「唯。僕はさ、いつ死んだっていいって、ずっとそう思っていたんだ」

 ぽつりと、話す。不謹慎な話かもしれない。それでも今、また新しくはじまっていく前に、知っていてほしかった。

「でも、今は違う。唯より先には、僕は死なない。絶対にだ」

「……絶対なんて、ないよ。わかってるくせに」

「うん。それでも、絶対だ」

 どんなに醜くたって地面を這いつくばってでも生きてやろうと、そう強く思っている。この世界に絶対なんてなくても、唯よりたった一秒でも、僕は長く生きてみせる。

 唯を悲しませない。置いていくことはしない。陽影が見ることが出来なかった分も、ずっと。どんな嘘を吐いてでも、幸福を詰め込んだ柔らかい世界に唯を浸して笑わせたい。それだけなんだ。

「美月は、全然リアリストじゃないよね」

「うん。自分ではわりと現実主義者だと思っていたんだけど」

 違ったみたいだ、と笑うと、唯もしょうがなさそうに少しだけ笑った。笑ってくれた。……いつ以来だろう。唯の笑顔を見るのは。

 世界は変わっていく。それでも僕は生きていて、そして隣で唯が笑ってくれている。





 陽影。きっと陽影が見たかったのは、こんな風にごく自然に笑う唯だったのだろう。まだ痛みを背負ったままでも、それでも。

 僕だけではこんな唯はきっと見ることは出来なかった。陽影がいたから、頑張ったから、今僕たちはここにこうしている。どこまでが陽影の手のひらの上だったのだろう。僕を唯に会わせた時から、こうなることはわかっていたのだろうか。

 わからないけれど、それでもいい。手のひらの上でも、それでもいい。忘れずに、ずっと覚えている。

 共に過ごした狭い部屋でのことも、一緒に見たあの島の景色も、三人で過ごした穏やかな時間も、何もかも。目蓋を閉じれば鮮明に浮かんでくる。

「美月」

「ん?」

「夏になったら、海に行こう」

「うん」

「秋になったらコンサートに行って、ミュージカルもまた観たい」

「うん。一緒に行こう」

「冬は今度こそ、クリスマスパーティーをする」

「……うん」

 あの日陽影が買ってくると言っていたクリスマスケーキ。その店の名前も、僕は聞いていた。今年の冬はきっと、買いに行こう。お墓参りをして、でも流石にお供物にケーキはまずいかな。

 まだ、少し思い出すだけで視界が滲む。

「あとね、いつかランドスケープアゲートも見たい」

 いつだったか陽影が話していた、風景画のような模様の石。僕はそれを見たことはないし、唯も、そして陽影もそうだった。

「うん。探して、いつか見よう」

 どこにあるかもわからない。陽影のような知識は、僕たちにはなかった。それでも、いつかの未来の約束をいくつもいくつも唯と交わす。

 唯が未来の話をしてくれることが、どうしようもなく嬉しかった。

 さわさわと風が吹いて、木々を揺らす。見慣れているはずの自分の部屋の窓からの景色。ランドスケープアゲートに描かれている景色も、きっとこんな風に何でもないようなものなのではないかと、そう思う。

 当たり前の日常を、永遠に閉じ込めた石。それに憧れていた陽影の心を思いながら、時間も忘れてありふれた風景をいつまでも二人で眺めていた。



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ランドスケープアゲート 怪人X @aoisora_mizunoiro

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