香夏の意向で、年が明けてから香夏の両親のところへ挨拶に行こうということになった。十二月はどこもばたばたとしがちだし、年末年始の長期休みの時に落ち着いて向かいたい。それで正月の挨拶と結婚を願う挨拶を一緒にしてしまおう、と。おめでたいことは重なった方が嬉しいはずだから、と香夏は笑った。

 俺はまだ香夏の家族に会ったことはないけれど、家族仲はとても良いらしい。付き合っている人がいるという話もしているそうで、薄々結婚の挨拶は勘づかれていそうだと香夏は言っていた。流石に子供のことはまだ秘密にしているそうだが。

 年始、香夏の家族に会うのが楽しみだった。結婚前に子供が出来てしまったことはどう思われるか心配だけれど。


 そして、クリスマスイブの日。

 唯の家で行われるクリスマスパーティーに、俺は香夏を連れて行って、ひと足先に唯と美月に香夏を紹介しようと思っていた。

 といっても、美月は同じ職場だから、当然香夏のことは知っている。きっとびっくりするだろうな。つい、くすりと笑ってしまう。

 唯は知らない人が来てびっくりするだろう。けれど俺も美月もいるし、大分人にも慣れてきたと思う。香夏は穏やかな子だし、俺から唯の話は聞いて知っている。今日すぐに仲良くは難しくても、時間を掛ければきっと心を許していけると思う。

 ケーキを買って香夏を迎えに行く前に、俺は父のところへと来た。

 今日、意地でも父を説得しようと決めていた。せめて専門の人と話すなり、病院へ行くなり、そういった約束を交わしたい。娘を殴ることはおかしいことなんだと、僅かでも自覚してほしい。

 そして、良い知らせを唯に聞かせてあげたい。嬉しいことは重なるともっと嬉しいのだし、香夏の両親に挨拶に行く前にきちんとしたいという気持ちもある。唯だって父のことが何とか落ち着けば、美月と向き合っていけるのではないかと、少し期待もしている。

「父さん。飲み過ぎは体に良くないよ」

 荒れた部屋を片付けていく。もう既に酔っ払っていて、空き缶や空き瓶がそのまま放置されていた。部屋は寒いのに父は赤い顔をしていて、ゆらゆらと揺れて落ち着かない。

「唯はどこだ……」

「唯はちゃんと生活してるよ。料理も覚えたし、本もよく読む。少しずつだけど、人並みの幸せを感じてきているんだ。……だからもう、唯を縛らないでほしいんだ。叩いたり、殴ったりしないで」

「お前なんかに言われたくない!」

 ガシャン、と酒の瓶が畳に叩きつけられて割れる。

 この人は本当に、もう駄目なのかもしれない。それなのに諦めることが出来ない。優しかったあの頃の父の姿を忘れることが出来ない。

 もう、母は死んだ。俺と唯にとって、親と呼べる人はこの人しかいないのだ。

「……父さん」

 全部を解決して、そして二人に結婚をするのだと報告をしたかった。何の憂いもなく、夏の空のように鮮やかで明るい場所で、みんなで笑いたい。

「父さん、俺、来年結婚するんだ。離れ離れになってしまった家みたいじゃなく、みんながいる幸せな家庭を築きたい。そこには父さんだっていてほしいんだよ」

 今すぐじゃなくてもいい。回復まで時間が掛かってもそこへ歩き出していけたのなら。最初の一歩さえ踏み出せれば、そこから変わっていけるはずだから。

 いつか。唯を殴ったりはしない優しい父がいて、笑っている唯がいて、美月がいて、そして俺の隣には香夏がいて、子供もいる。あたたかい、幸せな家族。それを思い描いている。

 これは叶わない夢なんかでは、決してない。だって父さんは昔、確かに、優しい人だったのだから。

 立ち直ってほしくて、前を向いてほしくて、父の肩を掴む。びくり、と大きく父の体が震えて、次の瞬間腹部に衝撃を感じた。

 父は何故か叫びながら、この場から逃げるように去っていく。まだ話は終わっていないのに。

 手を伸ばして追い掛けようとして、体が思うように動かないことに気付く。同時に腹部にずっしりとした重みを感じた。視線を向けると、深々と突き刺さっている何かが見えた。これは包丁の柄だろうか。刃は見えない。

 こういうのって抜いたら駄目なんだっけ。ぼんやりと考える。ああ、でも、妙に体が重く思考が霞みがかっている。刺さったところが悪かったのかもしれない。

「……」

 声も出ず、力が抜けていく。じわじわと服に血が滲んでいく。扉が開いたままの玄関から冷えた風が吹き込んでくる。ずるずると膝をついて床に倒れ込むと、その衝撃で携帯電話がポケットから落ちた。

 ——香夏に。

 震える手を伸ばす。幸い近くに落ちていて、手が届いた。リダイヤルボタンを押せば、すぐに香夏に繋がる。最後に電話をしていたのは、香夏だったから。

 しばらくのダイヤルの後、ぷつ、と繋がった。

『陽影?』

 電話越しの、名前を呼ぶ声。ほっとする。香夏、と。もう一度その名前を呼びたいのに、声が出ない。意識がぐらぐらと揺れる。

『どうしたの?陽影?』

 様子がおかしいことに気付いたのか、香夏が問い掛けてくる。

 伝えたいことは山ほどあるのに。山ほど言葉が浮かんで、映像が浮かんで、そしてはくはくと言葉にならずに消えていく。

 約束、守れなくてごめん。

『陽影……陽影?わたし、待ってるから。陽影が来るの、ずっと』

 そうだ、俺が迎えに来るのを待っている人がいる。こんなに寒い中、身籠った香夏が一人で歩くのは危ないから。唯も美月も待っている。俺がちゃんとケーキを買って、みんなのところに行かなくちゃ。

 暗くなっていく視界。夜の景色。今日は楽しいパーティーになるだろうか。描いた未来に、俺は近付けただろうか。



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