中学校に入ってしばらく経ってから、両親は離婚した。

 どちらについていくかという話になって、俺は迷わず母親を選んだ。俺には妹の唯がいたけれど、どちらも二人一緒には引き取れないと言われたので、俺と唯が離れることはもう決定事項だったらしい。

 そして俺は葵陽影という名前から、時和陽影という名前に変わり、長く住んだ宮城県から東京都へと引っ越した。

 母は繊細な人だった。精神が少し不安定で、よく癇癪を起こしていた。父は優しい人だった。けれど世渡りは上手くなかったようで会社を辞めることになり、それが原因で母と不仲になってしまったそうだ。それでも父は再就職先を無事に見つけていたし、優しい人だったから、俺は唯に関しては不安は抱いていなかった。妹と離れ離れになる寂しさはあったけれど、父と一緒なら、母といるよりは良いと思ったのだ。

 けれど母が病気になり、亡くなってしまった時。病気に罹ったことも手紙で知らせたのに返事はなく、電話を掛けても通じず、葬儀に来ることもなかった。父だけではなく、父のところにいる唯からもだ。

 離婚したとはいえ、唯は娘だ。母の病状や死を知ったのなら何かしら音沙汰があるはずなのに、何の連絡もないことに不安を感じて、一度宮城に帰って父を訪ねた。そこで俺ははじめて、父が駄目になってしまっていて、唯が暴力を振るわれていることを知ったのだった。





 数年掛けて、俺は宮城に帰ってきた。会社に掛け合って異動することになったのだ。そして唯を連れ出して、父と別のアパートに住ませた。

 あの時、両親が離婚した時。父のところにいるようにと唯に言ったのは俺だった。暴力に怯え、それでも父のところを離れられずにいた、そんな唯をつくりだしたのは間違いなく俺だった。

 異動した先に美月がいたことは驚いた。それから少し安心した。俺のことを知っている人がここにいることに。

 蒼依美月は同級生で、話す機会も多かったように思う。名字が葵と蒼依、どちらも『あおい』と同じ読みだし、誕生日も数日違い。あの頃は身長差もあまりなかったから、名字順、誕生日順、身長順と何で並んでも隣り合っていたから、同じグループを組むことになることが多かったのだ。性格的にも美月はとても落ち着いていて、話しやすかったように思う。

 父を説得出来るか、唯を守りきれるか、俺の中は山ほどの不安でぐるぐるしていて、けれど幼い頃の自分を知っている友人が近くにいる。そのことに、ほっとした。

「美月とはじめて話したのって、小学三年の時だっけ?」

「そう。その時はじめて同じクラスになったから」

「何で話すようになったんだっけか」

「あれだよ、名前の由来を調べてきなさいっていう宿題」

「ああ」

 よく覚えているものだなあと感心する。美月の言葉を聞いて、俺の記憶も一気にばっと鮮明になる。

 自分の名前の由来を親から聞いてくる、という宿題。聞いた由来を文章にまとめて、発表するという内容だった。誰も彼もこれこれこうでどうでと長ったらしくそれっぽい由来を発表する中、美月はいたってシンプルだった。それがあまりに面白くて、俺から話し掛けたんだっけ。

「生まれた日が月が綺麗な夜だったからです、だったよな」

 美月の発表はたった一言、それだけだった。先生もそれはもうびっくりして、それだけ?と聞いていたくらいだった。

 確かに原稿用紙に文章でまとめて、とは言われたけれど、何文字以上でとは言われていなかった。

「そうだね。僕も陽影の名前の由来を聞いた時、すごく印象に残った」

「俺の?」

「うん」

 美月がそう思っていたことは、はじめて聞いた。

 俺も自分の名前は結構気に入っている。わりと多くの人に、『ひかげ』じゃなく『ひなた』という名前の方が似合っているんじゃないかと言われてきた。でも俺はまだ仲の良かった両親が二人で考えてくれた、誰かの心をそっと休ませてあげられるような、『ひかげ』でありたいとその度に思った。





「あの、時和さん」

 ある日の帰り際、女性社員に話し掛けられた。確か都宮さんといっただろうか、入社してまだそんなに経っていないという。美月と一緒にいた時に少しだけ話したことがあった。ふわりとした髪に、薄化粧。少し大人しそうな、可愛らしい人という印象だった。

「も、もし良かったら、今度一緒にご飯を食べに行きませんか?」

「え?」

 大人しそうな人だなと考えていたから、急に誘われたことは少し意外で驚いた。見てみると都宮さんはちょっと顔が赤くなっていて、緊張しているのかぷるぷると震えていた。なんだか小動物を見ているみたいで、思わずぷっと吹き出して笑ってしまう。

 それで緊張の糸が解けたのか、都宮さんは更に真っ赤になりながらも、力の抜けたように笑った。


 都宮さんは不思議な人で、抜けているんだかしっかりしているんだか、よくわからない人だった。

 仕事帰りに何度かご飯を食べに行ったり、メールをしたりするようにはなった。けれど、それだけといえばそれだけだ。俺には余裕がなかったし、だから本当にただご飯を食べて話すだけの時間。

 会社で会う時は挨拶をしたり仕事の話をするくらいのもので、都宮さんは公私はきっちりわけているタイプだった。

「時和さんの、陽影さんっていう名前って、珍しい名前ですよね」

「そう?」

 ある時、ふと言われた。名前で呼ばれたのはその時がはじめてだった。

「でも、すごく似合っていると思います」

 この名前を似合っていると言ってくれた人は、美月以来だ。少し驚く。もしかしたら都宮さんは美月とどこか感覚が似ているのだろうか。だからどことなく居心地の良さを感じて、

こうして何度か食事に出掛けているのだろうか。

「なんでそう思ったの?」

「え?特に理由はないんですけど……ええと、何となく、そういうイメージで」

 都宮さんは不思議そうに首を傾げる。問われた理由を察していないのだろう。

「都宮さんは、名前なんていうの?」

 俺の中にふつふつとわいてきた興味、関心。

 色々なことを解決していくのに、それだけに集中しようと思っていた。事実、ここ数年はそればかりの日々だった。これからも同じように、それだけを見つめていくのだろうと思っていたのに。

香夏かなです。都宮香夏」

「かな……夏と菜の花?それとも佳人の方の佳かな」

「いえ、香る夏で、香夏です」

「へえ、その漢字のかなさんにははじめて会ったよ」

 香る夏、か。あの島の景色を思い出す。

「綺麗な名前だね」

 素直にそう思った。思ったままに褒めると、はにかんだように都宮さんは笑った。素直で、とても可愛らしい人だと思った。



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