三月、中章



 僕はお盆に訪れた、あの島に来ている。

 船に乗って長い坂道を上って、そして緩やかな階段を進んでいく。その先にある見晴らしの良い墓地。そこに陽影は眠っている。

 墓地だというのに驚くほど美しい景色。遠くの海、水平線、木々の緑。海の側の高い場所にあると、これほどまで違うものなのかと思う。お墓に来てもなお、浮かんでくるのは陽影の笑顔ばかりで。景色を美しいなどと思わせてしまうほどで。いつも笑っていた、陽影らしかった。

 本当は昨日、ここに来たかった。けれど昨日は木曜日で、日帰りでここに来るよりは金土日と三連休を取ってゆっくりしようと考えた。唯との話し合いに、一日ではとても足りないと思ったから。

 ……誕生日、おめでとう。

 心の中でそっと思う。昨日、三月十日は、陽影の誕生日だった。そしてその四日語の三月十四日が僕の誕生日だ。陽影はもう、年を取らない。絶対に追い越さなかったはずの年齢は、たったの数日で並んで、来年にはあっさりと追い越して年を重ねていくことになる。

 四月からのこのおよそ一年間を思い出す。キラキラとした、宝物のような時間。子供の頃に大切にしていた何か。それを僕は擦り減らして忘れてしまっていたけれど、陽影が思い出させてくれたような、そんな感覚がしている。


 冷えた風が吹く。陽射しこそ明るいけれど、三月のはじめはまだ寒い。

 『葵家』と書かれた墓石をじっと見つめる。陽影と唯の父方の名字だ。両親の離婚後、陽影は母親について行き、母親の旧姓の時和を名乗っていたけれど、陽影の遺骨はこちらのお墓に入ることになった。

 東京に母親が入ったお墓はあるものの、生前、こちらにあるお墓を管理してくれていた親戚の人に、陽影がこっちのお墓に入りたいなあと言っていたことがあったそうだ。それもあり、東京の方でめぼしい親戚がいないこともあり、陽影はここにいる。

 唯にはそのことも話した。そして僕が今日、ここに来ることも。

 先ほど墓石の前で唯に向かって呼び掛けたものの、さわさわと風が穏やかに吹くばかりで反応はない。けれど、来ているだろうと確信はあった。だからこうして、考えごとをしながら待っている。

 ……いや、でも本当に心の底からもう嫌われてしまっていたら、来てくれないということも、あるか。どうしよう。でも一応、まだ着信拒否設定はされていなかった。なんだか時間が経つほど不安になってきた。どうしよう、陽影。

 段々と不安でいっぱいになる。と、その時、じゃり、と地面が音を立てる。唯が真っ黒なワンピースを着て、そこにいた。

「……っ」

 言葉を失う。久しぶりに見た唯の姿。避けられていた今までが嘘のように、少々時間は置いたもののあっさりと出てきてくれた。良かった。会いたかった。嫌われていないだろうか。様々な感情がごちゃ混ぜになる。

 少し、痩せただろうか。元々華奢だったのに、今は前以上に頼りなさげにほっそりとしている。スカートからすらりと出ている足は、折れそうに見えた。

 それでも唯は生きて、ここに立っている。喪服を着て、陽影の誕生日から一日遅れで会いに来た僕を待っていてくれた。

 表情はない。けれどその目はゆらゆらと揺れている。それが怒りによるものなのか、悲しみによるものなのかは、わからないけれど。

「……唯」

 名前を呼んだだけ。返事もない。ただそれだけなのに、胸の中にじわじわと温かさが広がるようだった。

「考えは、変えてくれた?」

 問い掛けてみると、唯はふるふると頭を振る。そうだろうとは思っていた。陽影が唯を大切にしていたからこそ、唯はその死を受け入れられず、自分のせいだと責めているのだから。

「うん。もとより、唯が簡単に納得してくれるなんて思ってないよ」

 大切な人の存在を、その命を、その価値を、そんなにもすぐに納得なんて出来るはずがない。けれどいつまでも唯をそこに置いておくわけにはいかない。だからこそ、覚悟を持って手を差し出す。

「何年でも、何十年でも、僕は言い続けるよ。……陽影は唯のせいで死んだわけじゃない。陽影は幸福だった。僕はそう言い続ける」

「……」

「僕は唯と一緒にいたい。唯とならきっとどこまで不幸になったって構わないって思う。でも出来ることなら、唯には幸せであってほしいから」

 どうか責任を感じて、幸せに生きる資格なんてないと思わないでほしい。そう思ったまま、命を終えないでほしい。

「だから、話をしよう。たくさん」

 嫌われて、もう会えないかと思いもした。けれど唯はここに来て、僕と会ってくれた。だから僕はすべてを唯に伝える。

「ずっと一緒にいよう、唯」

 頑なな心を時間を掛けて解いていく覚悟はもう出来ている。だからこれが最後の話し合いだ。

 僕と唯は、陽影との思い出が多すぎる。一緒にいたら必ず思い出す。それほど三人でいる時間が多かったし、眩しい夢のような時間だったから。だからこそ、一緒にいれば思い出してつらくなる。あの時が幸せであればあるほどに。

 嫌だもう会いたくない、思い出すのはつらい、などと言われてしまうかもしれない。けれどそうなったらそうなったで、とりあえず三日掛けて次の約束を取り付ける気でいる。

 僕はもう譲らない。だからこの話を、陽影が眠るこの場所で伝えたかった。

 唯は俯いて、何も言わない。細い肩は震えていて、もしかしたら泣いているのかもしれない。僕はそれ以上は何も言わず、手を差し出したまま唯の反応を待つ。

 さあっと冷たい風が吹く。さらさらと唯の柔らかい髪が風で揺れていて、海の波音が遠くから聞こえてくる。どれほどの時間、そうして待っていたのか、感覚は曖昧だった。他に人もいないし見えるところに時計もない。驚くほど凪いだ、何もない、何にも急かされない時間。

 不思議だ。唯の部屋にいる時と同じような、苦しくない、居心地の良い沈黙。唯だけじゃない。僕もこれまでずっと張り詰めていたのだろう。

 そのうち、ふっと手に温かさを感じた。見ると、唯の小さく細い手がそっと僕の手を握ってくれていた。

「……ありがとう、唯」

 ひとまず、一緒にいることを了承してくれて良かった。嬉しくて微笑む。

 唯の考えはきっとまだ、変わらないままだろう。自分を責め続けていて、罪悪感と後悔で押し潰されそうなままだ。けれど、それでも今、僕と一緒にいることを選んでくれた。耳を塞いで止まったままの過去に泣くのではなく、僅かでも進む為の未来へ向かう選択をしてくれたのだ。

 唯がもう一度穏やかに暮らせるように、笑えるように、手を尽くしたい。陽影のように明るくは出来なくても、僕は僕なりに言葉と行動を尽くして。きっといつか、唯が心から幸せだと思えるように。


 その時だった。ずん、と、下から地面が突き上げられるような感覚ぎした。

 ああ、地震だ、と思う。宮城県に住んでいると、地震が起こることが結構多くて、こういった感覚には覚えがあった。大きな地震だとすぐに思う。宮城県沖地震は近い将来に必ず来ると前から言われていたし、このところ小さい地震も多かった。でも何か、どこか違う気がして、唯の手をぎゅっと掴む。唯は驚いたように目を見開いたけれど、痛いほどに掴んでしまった手を離そうとはしなかった。

 地震の揺れは強いまま中々おさまらず、僕たちは立っていられなくて地面に膝をついた。五分なのか十分なのか時間もわからない。揺れは続いて、一部の墓石がどんどんズレたり、音を立てて倒れたものもあった。これまでの地震とは違う。そう、確信する。

 ようやく揺れがおさまってから、息を吐く。

「……大きい地震だった」

「うん……」

 ぼんやりと放った一言に、唯も頷いた。もしかしたらまた揺れる可能性もあるから、動かずにその場で立ち上がって様子を見る。いくつかの墓石が倒れているのを見て、驚く。あんなにも重いものなのに、相当強く揺れたらしい。

 携帯電話を取り出す。まだ圏外にはなっていなかったけれど、電波はほとんど立っていなかった。これでは多分、電話は繋がらないだろう。家族や会社は大丈夫だったのだろうか。

 どちらにも電話を掛けてみたけれど、やはり混み合っていて繋がらない。大きな地震の直後は混み合って、こういうことはあるものだ。

 この時は、確かに揺れは大きかったけれど、焦ったり恐怖だったり、そんな感覚はまだなかった。目の前の、それを見るまでは。

「美月、あれ……」

 揺れがおさまってから、どのくらい経っただろう。呆然としたような唯の声。震える唯の指が差した先の景色は、これまでに見たことのないものだった。

 海が恐ろしいほどにうねって、そして波が壁を作って島へと覆い被さってくる。海沿いの松の木をたっぷりと飲み込み、じわり、じわりと、生き物のように真っ黒な口で島を飲み込んでいく。

「あ……」

 家が波に負けて流される。バリバリと音が聞こえそうなほど一瞬で破壊されていく。水はどんどん黒く大きくなって、家の残骸や木など色々なものが混じっていく。

 津波だ。津波が、何もかもを飲み込んでいく。

 夏に見た風景が、急激に変わっていく。失われていく。あの日、陽影と見た景色が、すべて。

 嘘みたいだった。悪い夢みたいだった。人がいつ死ぬかわからないように、世界だっていつ何があるかなんてわからないのだ。

 僕は唯がどこかへ行ってしまわないようにきつく抱き締めて、その残酷な光景を目に、頭に焼き付けた。



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