一月
「唯。今から僕は唯を怒らせる。先に謝っておく。ごめん」
嫌われて、二度と口もきいてもらえないかもしれない。居心地の良かったあの空気の何もかもを失って、取り戻せなくなってしまうかもしれない。
それでもこれは、僕がやらなければならないことだ。
陽影の友人として、そしていつの間にかきっと、唯を好きになっていた、僕のけじめとして。
怒りは、前を向く原動力でもあるから。それに例え志半ばであったとしても、陽影は……。
「陽影は、幸福だったよ」
部屋の中がしんと静まりかえる。不思議と鳴っているはずの時計や冷蔵庫の音さえ、耳には届いてこなかった。
唯は一瞬言われたことを理解出来ずに、けれどじわじわとその表情の中に、感情が表れた。それは怒りとも軽蔑ともとれる、かつてないほどの激情だった。
「なにを、言っているの?殺されたんだよ、父親に。殺されたのに、どこが幸福だったなんて言えるの!?」
聞いたことのない荒々しい声だった。激情に染まった瞳がじわじわと滲み、青白かった肌の色が熱くなって赤みを帯びる。こんなにも感情を剥き出しにした唯を見るのは、はじめてだった。
「陽影は私のせいで死んだ!実の父親に殺された!やりたいことだっていっぱいあった、クラシックのコンサートもミュージカル行くって約束もまだ守ってない!」
「それでも、陽影は幸福だったよ」
「なんで美月はそんなひどいこと言えるの!?私さえいなければ陽影は死なずに済んだ。今だって生きて、新しい年を迎えて、秋にはコンサートに行って、それでっ……」
「違う。唯がいたから、陽影は幸せだったんだ。唯がいなくちゃ、陽影はそうはならなかった」
剥き出しの唯の言葉がナイフのように胸に突き刺さるけれど、こればかりは折れるわけにはいかなかった。
だって陽影は言っていた。唯の為にしていることがあって、それを何とかしたかったのだと。唯のことを話す陽影はいつもとびきりの笑顔だった。代わりのいない特別な存在。守りたいのはただ妹だからではなく、唯だから。そこに確かに陽影の意思はあったのだ。
だからこそ痛みに打ちひしがれる唯をそのままにはしておけない。それはきっと陽影が最も避けたいことだから。痛くて泣いたらその後は、……笑ってほしいはずだから。
「ただ生き続けることが、そのまま幸せなわけじゃない。陽影が殺されたのは悲しいし、許せない。でも陽影がこれまで生きていた時間には大切な妹の唯がいて、その為にたくさん努力が出来たんだと思う。唯がいなければ陽影の幸せは成り立たない」
僕は一人っ子だ。けれど、きっと兄妹ってそういうものなんじゃないかって思う。少なくとも、陽影と唯は確かに、お互いが大切だった。
「生きていて、ほしかったのに」
ぽろぽろと唯の目から大粒の涙が溢れる。すっかり決壊してしまって、枯れてしまうんじゃないかと思うほど止まらなくて。そんな唯に僕はもう一度、突き付ける。
「唯。陽影は、幸福だったよ」
人は怒り続けることが出来ない。感情を継続させることが出来ない。それを今、唯は全身で感じているだろう。
さっきまでの激情は火を消して、ただ、唯は泣いた。
「……お父さんのことは、殺さなくていい」
しばらく泣いた後、唯はそう口にした。いつかの会話の返事だ。
「そうか」
唯は立ち上がり、玄関へと向かう。もうここへは来ないつもりなのかもしれない。僕が行っても会ってくれないのかもしれない。それでも今の唯を止める手立てを、僕は持たなかった。
「陽影がそれを望まないことくらい、わかってる。でも、認めない」
小さいけれどはっきりした声で唯は話して、そして部屋を出て行った。バタン、と扉が閉まる音が強い拒絶の証のようで痛い。
「……嫌われたかな……」
ずるずると座り込み、頭を抱える。ああ、唯、ラピスラズリの原石を握ったまま持って帰っちゃったな、などとそんなことを考える。まあ、元々陽影のものだし、いいか。
けれどこれで、唯は自ら死ぬことはしないだろう。時間は掛かっても前を向こうとしてくれるはず。あとは会ってくれるかはわからないけれど、いかに陽影が唯を大切に思っていたかをとにかく伝え続ける。だって陽影は自分の死を唯に深い傷を負わせるものになんて、したくなかったはずだから。
「ごめんな、陽影。お前が本当はもっと生きたいって悔いていたのだとしても、……きっと僕は嘘を吐くよ」
本当のところ、最期に陽影がどう思っていたかなんて誰にもわからない。
けれど確かなことは、陽影は唯に笑っていてほしかった。恐らくその為に、父親に会いに行っていたのだと思う。唯の憂いを取り払って、思い切り笑ってほしかったんだ。
そしてそれは、僕も。
はじめて人を好きになった。好きになることが出来るとは思わなかった。恋をした。恋をしていたことに気付いた。……まあ、嫌われたかもしれないのだけれど。僕の心はやっぱり空っぽのままなのかもしれない。けれど、後悔は微塵もなかった。
僕には陽影という一生ものの友人がいて、唯というはじめて特別に好きになることが出来た人がいた。僕は相変わらず人を信じられない駄目な人間だけれど、それでもこの二人になら騙されてもいいと思っている。嘘だと知りながら甘んじてそれを受け入れるだろう。どこまで不幸になっても、一緒ならきっと笑っていられるだろう。そう思えるくらいに大切な人に、二人も出会えたのだ。
僕にはきっと、今でも片栗粉の酔い止めは効かない。それでも幸福だと、そう思える。
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