十二月
陽影は用事があるのだと言って出掛けることが、これまで以上に増えた。必然的に僕と唯、二人の時間が多くなった。
だからといって相変わらず別に何をするわけでもなく、唯のアパートで本を読んだり、料理をしたりで、会話もそんなに多くはなかった。
あの夜以降もだ。話を蒸し返すわけでもなく、もう一度キスをするわけでもなく、淡々と以前と同じような雰囲気のままでいる。
それでもどこか、距離は近付いたような気はしながら、同じ部屋で過ごしていた。
「なあ、クリスマスパーティーをしないか?」
提案をしたのは、やはり陽影だ。十二月も中頃に差し掛かって、街はもうクリスマスムード一色だった。特に仙台は毎年イルミネーションに力を入れているから、余計に盛り上がっているように感じるのかもしれない。
「唯のとこでさ、一緒にケーキ食べるだけでもいいだろ。折角なんだし」
「別にいいけど」
「じゃあ、決まりな」
にっこりと陽影は嬉しそうに笑う。
「それまでにさ、何とかしたいことがあるんだ」
「……なに?」
「まだ内緒。唯にも言うなよ」
「内緒を内緒って、意味がわからないんだけど」
「まあ、唯の為のことだよ」
二人の間には、僕の知らない何かがある。
それは兄妹だからこそ通じるものなのかもしれないし、それ以外のことかもしれない。ただ唯は陽影を信じていて、きっと陽影もそれに応えている。それは僕から見たら眩しくて羨ましくて、そして幸せそうなことだ。
あの夜唯にあれこれ吐露したおかげか、少し心は軽くなった。罪悪感で雁字搦めになっていたところに、ぽつりと穴が空いて、呼吸がしやすくなったようだ。現状は何も変わってはいない。僕は相変わらず人を信じることは出来ないままだ。それでも唯は軽蔑して離れることも、気を遣われることもなかった。そのことで少し、楽になったのは確かだ。
「陽影。小学校の修学旅行の時、覚えてるか?」
「ん?何だよ急に。えーっと、福島に行ったやつだろ?何となくだけど、覚えてるよ」
「あの時よく効く酔い止めの薬だって渡したやつ、あれ本当はただの片栗粉だったんだ」
そう言うと陽影は目を丸くして、そしてぷっと吹き出して笑った。
「あはは、何年越しの真実だよ、それ!あの酔い止め、めっちゃ効いたんだけど!?」
「十年ちょっとぶりの真実だね」
「うわ、俺馬鹿みたいじゃんか!」
「だな」
子供みたいに笑う。僕も可笑しくて笑っていた。涙が出そうなくらいに。
陽影は人を信じることの出来る、幸福な人間なのだ。
クリスマスイブの夜。
仕事は休みだったのに朝から陽影は出掛けていて、夜になってもまだ帰ってこなかった。
唯のアパートで陽影を待つ。ケーキは陽影が買ってくると、出掛ける前にそう言っていた。僕と唯は普段より豪華な料理を準備したが、それももう大分前に作り終わった。陽影が帰ってくれば温めて、すぐに食べられるのに。
「遅いな」
「うん」
いつも夕方くらいまでにはアパートに戻ってくるのに、今日に限って陽影は遅れていた。
時計はもうすぐ二十一時を刻もうとしている。外はもうすっかり真っ暗だった。元々クリスマスパーティーだから普段よりは長く唯のアパートにはいる予定だったけれど、それにしたって到着が遅すぎる。電話を掛けても出ない。メールをしても返事がない。こんなことははじめてだった。
言いようのない不安が、僕にも唯にもある。陽影だって大人なのだし夜まで出歩くことだってあるだろう。ただ、陽影は黙って約束を破る人ではない。
何度目かわからない電話を掛けた時、ようやく繋がった。
「陽影?」
電話の向こうにいるはずの、その名前を呼ぶ。
けれど聞こえてきたのは知らない中年の男性の声で、落ち着いて聞いてください、などと、一体どこで言われるのだろうかとぼんやり思いながら観ていたドラマのセリフを電話越しにはじめて聞いた。
『時和陽影さんは、先ほど、お亡くなりになりました』
僕の二十四年の人生の中で、これほどまでに冷たく響いた言葉はなかった。
そこから先のことは、あまりよく覚えていない。ただ唯に伝えて、そして病院に行かなければと、それだけだった。
言葉を失くして真っ青になった唯はきっと現実を受け止められてなんかなくて。僕だってそうなのに、唯は尚更だ。血の気が引いたまま固まる唯に上着を着せ、手を引いてアパートを出る。タクシーを拾って病院へ行って、着いた病院は既に診察時間を終えていたからか怖いくらいに静かで。かつん、かつんとやけに靴音が響いて。
通された真っ白な部屋の中、頭と体にそれぞれに白い布を掛けられてベッドに横たわっている人の姿を見つめる。ぴくりとも動かない。胸の辺りも寝ている時のように、微かにも上下することはなかった。
所持品から時和さんだと思われるのですが確認をお願い出来ますか、などと、遠くの方で声が聞こえて。ふらふらと僕たちは近付いた。
怖かった。その顔を覆う白い布を取ることが。心臓の音がバクバクとものすごくうるさくて、唯と繋いだままの手には大量の冷たい汗をかいていた。それでも僕も唯も、お互いの手を離せなかった。
とても長い時間を掛けて、その布を取った気がする。実際には短かったのかもしれない。それでもその時は永遠かと、そう思うほどだった。
「……陽影」
その睫毛は深く伏せられて、まるで眠っているようだった。顔には傷なんて一つもない。びっくりするほど顔色が青白いということ以外は、朝、行ってくると出掛けていった、そのままの陽影だった。
ほどなくして、陽影の元父親、唯の父親が逮捕されたと聞いた。何がどうなってとか、その辺りの事情は僕にはまだ聞こえてこない。唯が何度か警察に呼ばれて、僕はそれに付き添っていた。唯は話さず、そしてお墓を掃除してくれていた親戚の人が取り計らってくれた陽影の葬儀にも、出席しなかった。とても、出来なかった。
「……唯。何が食べないと」
唯に声を掛ける。反応は芳しくない。
僕もまだ信じられない気持ちのままだ。けれど自分のことよりも、唯のことが心配だった。あれから、ほとんど何も食べていない。きちんと眠っているのかさえわからない。あのクリスマスイブの夜のまま、唯の時間は止まってしまったかのようだった。
「唯」
陽影はそんな唯を望まないよ、なんて、そんな言葉は言えなかった。僕がもっと愚かだったら言えただろうか。あるいは心から唯を大切に思っているのなら。優しかったのなら。偽善者だったのなら。そうしたら唯は無理にでも顔を上げたのだろうか。
「僕が、唯のお父さんを、殺せばいい?」
ひくり、と唯の体が小さく震えた。やっと僕の言葉に反応を見せた。
「本気で、言っているの?」
久しぶりに聞いた声は、少し掠れていた。ろくに食べても休めてもいないからだろう。
「それで唯が報われるのなら、いいよ」
これは本当の気持ちだった。僕の中でくすぶっている。陽影を殺された憎しみ。その陽影が大切にしていた存在である唯をこんな風に弱らせている原因である顔も知らないその人を、僕は確かに殺せると思った。例えその二人と血の繋がりがある人だったとしても。陽影や唯に顔立ちが似ていようとも。強い、確信があった。
「……私、は、殺せなかった」
ぽつりと呟いた唯が、長袖を捲った。細身の腕が二の腕の辺りまで露わになる。
あまり日に焼けていない白い腕。そこにある、黒ずんだもの、紫色のもの、まだらに散った変色した皮膚。痛々しく、けれどどうしようもない。唯が夏でも長袖を着ていた理由がやっとわかる。それは長い年月を掛けた、暴力の痕だった。
「陽影は多分、私の為にお父さんを止めようとしていたんだと思う。だから、私のせいで陽影は死んだ」
「違う」
「違わない」
「違う!!」
こんなに大声を出したのなんて、一体いつ以来だろう。普段出さないから、喉にぴりっとした痛みが走った。それでも出さずにはいられなかった。自分の中にこんなにも強い衝動があったなんて、知らなかった。
今にも消えてしまいそうな唯を、きつく抱き締める。
「離して」
嫌がって唯がじたじたと暴れる。けれど離せなかった。腕に力がこもる。
「痛いよ……」
しばらくすると唯は抵抗をやめた。
静かな部屋に僅かに聞こえる。唯は声を殺して、陽影が死んでから多分はじめて、ちゃんと泣いた。
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