十一月
二人で観たミュージカルはとても明るい内容のもので、少し眩しかった。ミュージカルだけではなく舞台そのものも観るのははじめてだったけれど、生で観るとこれほどの迫力があるのかと思う。先月行ったコンサートのように、ここにしかない瞬間のようなものがある気がした。
「陽影にも見せたかったな」
「うん」
それが僕たち二人の、ミュージカルを観終わった後の最終的な感想だった。
結局、陽影を中心に回っているのだと思う。僕も唯も口数が多いわけではないし、今更それをどうにかしようとはきっとお互いに思ってはいないけれど、陽影が明るく笑って話すことで、地球が自転しているかのように穏やかに当たり前に時間が過ぎる。
「今度は三人で来よう」
「うん。また約束が増えたね」
僕の言葉に、唯はとても愛しげに呟いたように感じた。随分、慣れたと思う。一緒に料理をしてきた影響がやっぱり大きかったのかな。共同作業をして、ご飯を食べて、陽影が嬉しそうに笑うのを見て。そんな何でもないような日々の、積み重ねでここまで来たのだと思う。
帰り道、暗くなった景色を眺めながらぽつりぽつりと話しながら歩く。中心部を抜けると、人通りも少なくなった。
「美月は、人を殺したいって思ったことはある?」
夜の静けさに溶けるような声で、唯は言った。
小さな声だったのに、何故かすとんと落ちるように言葉が鮮明に入ってきた。唯の表情は普段と変わらず、無表情のままだ。
あんなに明るいミュージカルを観てきたのに、その落差にしんと冷える。でもこれまでだってずっと、そうだった。陽影がどんなに明るく笑っていて穏やかな時間を過ごしていても、真っ白な紙にいつの間にか落ちていた水のように、見えづらくても取り戻せない何かが蝕んでいるような気がしていた。
唯が今話したこれは、凍結した感情なのだろうか。まるで他人事のように透明な目をしている。
「ないよ」
しばらく考えて返答をする。殺したいと思ったことは、僕にはなかった。
「……そう。美月は幸せなんだね」
そうだな、とは頷けなかった。
確かに人を殺したいと思うほどの出来事はなかったし、恵まれた環境にいるのだとは思う。五体満足で、そこそこの仕事をしていて、家族とも別に不仲ではない。今では友人もいる。でも幸せかと問われれば、それはやはり違うのだ。
「唯。僕は、人を信じられないんだ」
誰にも。誰にも話すつもりはなかったことだった。家族にも、陽影にも。薄々気付いているかもしれないけれど、決定的に言葉にしたことはなかった。それを今、何故か唯に話している。
小学生の頃、酔い止めとして効かなかった片栗粉のことを思い出す。
あの頃からずっと、僕の本質は変わらない。疑り深くて、誰も信じられなくて、そんな自分のことも許せないのに、どうしようもない。育ててくれて、恐らくきちんと愛情をくれていたであろう両親のことさえ、僕は信じていないのだから。
「他人を信じることの出来ない人間は、幸せにはなれないよ」
信じるという気持ちで埋めることの出来ない心。盲目になれたら幸せだった。騙されたって、その方が幸せなのだ。だって騙される人は、他人を信じることが出来る人なのだから。
心を許せないのなら、愛するということもまた、出来ないのだろう。
僕の話を聞いても唯は動揺することもなくいつも通りだった。そのことに少しほっとする。軽蔑されたら多分、悲しいと思う。
「唯は、信じられる人はいる?」
「陽影」
迷いもせずに唯は答える。それは僕が欲しくても手にすることが出来ていない弱さで、強さだ。
「どうして信じられる?血の繋がった兄だから?」
純粋な疑問だった。警戒心の強い唯が信じると言い切れる理由を知りたいと思った。
「違う」
唯は足を止め、顔を上げる。僕も歩くのをやめた。唯が見上げているのはすっかり暗くなった空だ。もう周りに人はいない。僕たち二人が暗闇の中に取り残されてしまったようだった。
「泣いてくれたから」
「……泣いてくれた?陽影が?」
「うん。それから、抱き締めてくれた」
唯はそのぬくもりを思い出すかのように、自分自身の体をぎゅっと抱き締めた。
子供の頃に、きっと僕だってその行為をされたはずなのに。それでも僕の心は空っぽだった。人を信じることが出来ないから、人を本当に好きになることが出来ない。
こんなにも深い話をしている唯相手にさえ、これで軽蔑されてしまったら唯が離れていってしまうのは仕方のないことだなと思っている。唯が留まるほどの価値は、僕にはない。
「……美月は、寂しい人だね」
「……うん」
わかっている。自覚している。たちが悪いのは、僕はそのままで、諦めているということだ。
だってどうしたってあれは僕にとってはただの片栗粉だったし、去っていく人を追い掛ける熱をいつまでも持つことは出来なかった。
「泣いているの?」
唯のほっそりとした手が、僕の頬を撫でる。冷たい空気で冷え切った頬に触れる唯の手のひらは、手袋を外したばかりということもあってとてもあたたかかった。
「わからない」
あたたかな手に、自分の手を重ねる。唯の手はすっかり僕の手で覆ってしまえるほど小さい。年下の華奢な女の子の手だった。
じ、と唯は僕を見つめる。髪と同じ少し色素の薄い瞳。そこにどんな感情が映っているのか僕には読み取ることが出来ない。
何も出来ないままでいると、ふいに唯の顔が近付く。背伸びをしているんだな、とぼんやり考えているうちに、唇に柔らかな感触がした。夜の空気で冷えて、少し冷たい。まるで現実味のない出来事のようで、僕は静かに目を閉じた。
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