九月
真夏特有の暑さもじわじわとおさまり、まだ暑いながらも次第に秋を感じられるようになってきた頃、唯の料理の腕も随分と上達してきた。
最初は包丁を握る姿がとても怖くてはらはらしたものだが、不器用ながらも今はそれなりに安定して野菜などを切っている。
味噌汁は勿論、簡単な炒め物や煮物なども覚えて、最近では自ら料理本を買ってきてそれを参考に色々作ってみたりもしている。しいて問題を挙げるとするなら、和洋とか細かいところを考えないというところだろうか。今日はボロネーゼパスタと、しじみの味噌汁と、それからサンマの塩焼きだった。色々混じっているし、昼食とは思えない豪華さである。
「んー美味しい。上手くなったなあ、唯」
満面の笑顔で陽影がしみじみと話す。子供の成長を見守る親のような雰囲気を醸し出している。そんな感じで陽影からも好評のようだから、とりあえず良いのだろう。
今日は昼食も唯の住むアパートで三人で一緒に食べた。昼食を仙台駅付近で食べてきてからここに来ることもあったけれど、唯が料理を思いの外真剣に取り組んでいたので、この形に何となく落ち着いた。昼と夜、二食作った方が上達も早いし。
「そうそう、俺今日ちょっと用事あるからさ、出掛けてくる。夕方にはここに戻ってくるから」
「……は?」
昼食を終えると陽影が急にそう話す。陽影の中では決定事項らしく、さっさと自分の鞄を持った。
「じゃ、いってきまーす」
軽い挨拶をしてニコニコしながら陽影は部屋を出て行った。部屋の中には突然のことに呆然としたままの僕と唯が残される。いいのか、これは。
「……」
「……」
「……」
「……」
まあ、こんなものだ。もとより僕も唯も口数は少ない。
結局押し入れから今日読む本を選びはじめる。唯は買って帰ってきた本を早速読むらしい。
「美月は、好きな本はあるの?」
ふと、唯が話し掛けてきた。珍しいな、と思う。
「ジャンルとか作家とかはあんまり気にしないで読むけど、そうだな……」
好きな本といわれると、色々浮かんできてやはり迷う。同じ作家の書いたものでも題材や書いた時期が違えば書き方はまったく変わってくるし、読んだ時の心理状況にもよるだろう。
「印象に残っているのは、『魔王』かな。知ってる?宮城県の作家さんが書いてる」
「読んだことない」
「じゃあ今度来る時、持ってくるよ」
「うん」
僕にとっては印象深いものでも、唯の好みの内容かは判断しかねるところなんだけれど。どのみち読んでみないとわからないしね。
表情を見るに興味を引いたようだったから、約束を交わす。あまり人に本を貸すのは好きではないけれど、唯だったらいいだろうと思う。無碍に扱うことはないだろう。
「唯は好きな本はあるのか?」
唯は以前、別段本が好きというわけではないと言っていた。けれど好きな本はどうなのだろうか。というか部屋にこれだけ本があって待ち合わせも結局いつも本屋で、気付けば店でも家でも本を読んでいるというのに、好きではないという方がおかしい気はするけれど。
「何回も読み直す本ならある」
「え?……何ていう本?」
唯は大体一回か二回読んだら押し入れに本を片付けて、その後読み直すことはあまりないらしい。何度も同じ本を読み直すよりは新しい本を次々に読むタイプだ。
そんな唯が何回も読み直すということは、相当好きなのではないだろうか。
唯は押し入れからではなく、自分の鞄から一冊の本を取り出して僕に差し出してきた。白と灰色の、シンプルな表紙の文芸書だ。
「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」
何だその長いのは。と思って本を受け取ってみたら、タイトルだった。見覚えのある著者名だ。かなり有名な人で直木賞も受賞しているはず。これではない小説だったらいくつか読んだことがあった。軽やかな文章で読みやすく、面白かった記憶がある。けれど、この本は読んだことはない。
「貸してくれるのか?」
こくり、と唯は頷く。
どういった内容の本なのか聞くのはやめることにした。先に情報がない状態で読んだ方が楽しめるし内容もすっと入ってくる。その方が面白い。
「ありがとう」
この本は家に帰ってから読もうと思った。
それからはお互いに黙々と本を読み続けて、夕方頃になって二人で夕食の準備をはじめる。ちょうどその時、陽影が帰ってきた。
「ただいまー。お、ちょうど良かった。おみやげあるんだ」
ひょこっと顔を出した陽影が袋を差し出す。
「ししゃも〜。焼いて食べよう」
「嫌」
即座に拒否をしたのは唯だった。あまりの拒絶の早さに陽影もきょとんとしている。
「ししゃも、苦手?」
僕が問い掛けると唯はすぐに頷く。
「小魚は苦手。体の全部を食べるなんて信じられない。目もあるし、皮も光ってるし」
いつになく唯は饒舌だった。すごいな、そこまで苦手か。
それならししゃもと言っておきながら実はよく売られているほとんどは本物のししゃもではなくてねとかそういう話をしたところで意見は変わらないだろう。小魚が駄目だという話だし。……サンマはお昼に食べていたけど、あれは良いのか。丁寧に皮は剥がして身を食べていたけれど。うん。よくわからない。
「あー。そういえばそんなこと前言ってたっけ。唯は食べる部位を人間で想像するから苦手なんだろ?牛タンは食べるくせに」
「タンはあまり原形が残っていない」
「はいはい」
魚を食べる時に人間で想像するっていうのもすごいな。あまりそういう風に考えたことはなかった。
牛タンもな。原形が残っているタイプのやつも一応売ってるけれど、まあお店ではほとんどカットされた状態ではあるからね。以前高速道路のどこかのサービスエリアで、めちゃくちゃ舌じゃん……という形の残ったカットされていない牛タンを見掛けたことがあった。あれ、唯が見たら今後の牛タンを拒絶してしまうのだろうかと思うと、ちょっと可笑しくなって笑ってしまう。
唯の考え方は面白い。よくわからなくて、だから余計に気になるのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます