七月



 誰も料理をしないのだから冷蔵庫に野菜などがあるはずもなく、近所のスーパーまで買い出しに出掛けることになった。

 ちなみに陽影は役に立たない上に余計なものをかごに入れる可能性があるから留守番だ。

「唯は料理、一切したことないのか?」

「ない」

「しようと思ったことは?」

「ないわけじゃない」

 他に誰か教えてくれる人はいなかったのだろうか。まあそれぞれの家庭の事情なんて他人が首を突っ込むことでもないし。何にしてもよくこの状況で一人暮らしをしようと考えて実行したものだ。

「まあ、本を読んで料理をするっていうのも難しいけど……」

 料理の本はどれほど簡単だとか書いてあっても、やはりある程度は経験してみないとわからないことが多いと思う。僕は料理をするけれど、料理本を読んで作ってみようと思うタイプではない。興味本位で本は読むけれど。

「美月は、本が好き?」

「え?」

 驚いてつい聞き返してしまった。声は、言葉はちゃんと聞こえていたのに。

 あまり話さない唯に話し掛けられたことと、その唯が僕を呼び捨てで呼んだこと。その二つに驚いてしまったのだ。

 そういえば唯が僕の名前を呼んだのはこれがはじめてだ。僕だって唯を呼び捨てにしているのだから唯もそうするのはごく自然なことかもしれないし、陽影がいつもしている僕への呼び方が当たり前のように唯に移ったのかもしれない。

「美月は、本が好き?」

 僕が聞き返したことでよく聞こえなかったのだろうと思った唯が、丁寧にもまったく同じトーンで同じセリフを言った。

「ああ、うん。好きだよ」

「そうだよね。真剣に読んでいたから」

「そうかな」

「うん。楽しそうだった」

「……そう?」

「空気が」

 本を読んでいる時の表情なんて気にしたことはなかったけれど、集中しているからずっと黙っているし、恐らく無表情だと思う。鏡で見たことはないから多分としか言えないが、喫茶店で読んでいる時ににやにやとかしていたらちょっと怪しい存在に思われそうだし。

「唯は本が好きなのか?」

「別に」

「……あれだけ部屋に本があるのに?」

 こくん、と唯は頷いた。よくわからない子だ。好きでもないのならどうしてあそこまで本を買い、読んでいるのだろう。待ち合わせの場所もいつも本屋だし。

 そうこう話をしているうちに、スーパーに着いた。

 かごを持って、とりあえずは近日中に使い切れそうな分の食材を選んでいく。一応唯に、どういう食材は日持ちをするだとか、こうして保管するだとか、鮮度や良し悪しの見分け方とかを色々説明しながら買い物を進める。

 唯は大きな目でじっと食材を見つめて、僕の話を黙って聞いていた。反応があまりないのでちゃんと理解してくれているのかどうかはよくわからないけれど、簡単に聞き流しているようには見えなかった。


「あ、おかえりー」

 唯のアパートに戻ると、完全にリラックスしている様子の陽影がいた。ごろごろと床に転がっている。

「夕飯、なに作るんだ?」

「味噌汁」

「……それ、夕飯?」

「料理の基本だ」

「うわあ……料理の先生間違ったかな」

 陽影のぼやきは聞こえないふりをして、キッチンへ向かう。今使わない分の食材は冷蔵庫にしまっておく。

 料理はしていないにしても、キッチンはちゃんと掃除されていた。鍋やフライパンなどの料理をする為に必要なものや食器類は、買い物に出掛ける前に確認したが結構充実していた。コンロも大して新しくはないガスコンロだったけれどこちらも使ってはいなくても掃除だけはされていて、ちゃんと火もついた。

「いいか、唯。味噌汁さえ作れればちゃんと嫁にいけるから」

 一応これは唯の為でもある。何を隠そう、陽影は味噌汁が好きだ。だからまず唯が覚えるべき料理はこれしかない。

 しっかりと手を洗ってから、鍋に水を入れて火にかける。人参だったり大根だったり時間の掛かるものを教えるのはまた今度にして、とりあえず今は最も簡単だろう豆腐とわかめの味噌汁にする。豆腐もわかめも火を通す必要がないから、最後に入れるだけでいいというお手軽さだ。

「味をつけるのは沸騰してから」

「わかった」

「その間に豆腐を切る」

 豆腐をパックから出して軽く水で流し、まな板に乗せる。包丁でさくさくと切ってみせる。慣れれば水で流してからまな板を使わずにそのまま手のひらの上で切っても良いが、唯は初心者だし安定したところではじめた方が良いだろう。

「包丁の扱いには気を付けること」

「うん」

 唯は大きな目でじっと見つめて、そして僕の話を聞く。相変わらず言葉は少ないけれど、頑張って覚えようとしているのだろうなと思う。

 まあ豆腐を切るのは簡単だし、すぐに覚えられるだろう。それに多少の大きさの差異など可愛いものだ。陽影も気にするような奴じゃないし、そもそも唯が作ったものとなれば何だって喜んで食べそうだ。

 水しか入っていない鍋が沸騰したら火を弱め、だしを入れて味噌を溶かす。だしは簡単に味が決まる顆粒だしという強い味方がいるし、味噌は目分量で入れるが味見をして濃い薄いがあれば調整していけばいい。何度か唯と一緒に味見をして、味が調ったら最後に先程切った豆腐と乾燥わかめを袋から出して入れ、火を止める。

「どう?」

「なんとなくわかった」

「まあ、やれば覚えるよ。どうせまた来週来るんだから」

「うん」

「おっ、美月先生やる気だねー」

 まだごろごろしている陽影からからかうような声が飛んでくる。

「流石に食生活が心配すぎるだろう、これは」

 はあ、と溜め息を吐く。どうしてこう危機感というものがないのか。

 その後焼くだけ簡単なハッシュドポテトを三人分焼いて、買ってきた出来合いのサラダを三人分に分けて。ご飯を炊く時間はなかったからこれもまた出来合いのものをレンジで温めて食べた。お米のとぎ方などはまた今度来た時にゆっくり教えることにした。

 夕食を終えて僕と陽影は帰ろうとしたところで、僕の服の裾をくいっと唯が引っ張った。

「美月、ありがとう」

 ぽつりと心地良いソプラノで、その言葉は紡がれた。

 別になんてことはない、名前とお礼、それだけだ。だというのに不思議だ。それがいつまでも耳に残る。この感覚は何だろう。僕は知らなかった。



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