第3話 眠りの風と白い医院
その夜のこと。
疲労で僅かに顔色を悪くした広道と伊予がそれでも毅然と食堂に現れれば、実道が夕食を取っていた。久我山医院の夜は、夜間の見回りやらなにやら其々に予定が組まれている。久我山家では朝はなるべく揃って取ることにしているが、夜は別々だ。広道は食堂内を見回した。
「二人とも、お疲れ様。力になれなくてすまないね」
「問題ない。実道も伊予がいないと大変だろう」
「全くね。けれども君たち二人の大変さには及ばないだろう」
なんだかんだと久我山一家は仲が良い。
実道は先代をもこき使い、伊予と数人の看護婦がいない穴を埋めたのだ。
「ところで凛はどうした」
いつもであれば、久我山家の食卓は、いつ人が現れてもいいよう凛が待機し、給仕をしている。
「ああ。凛は急に入院患者が増えたからね。食事の用意で手一杯だ。今はようやく一息ついて、薬草園を見に行っている」
「そうか。では見に行ってみよう」
どうせ凛が食べるのは最後だ。広道はそれであれば一緒に食べればよいと考えた。伊予と実道はいつも、それを眉間のシワを減らして凛に直接言えばよいと思ってはいるのだが、いくら言っても誰にも伝わらぬので最近は放置している。
その夜は洋々と晴れ、ぽかりと月が出ていた。ランプもいらぬほどだと思いながら広道はその道を進み、そして薬草園の前に棒立ちになっている人影を見つけた。
「凛、どうした。そんなところで」
「広道様、一体何があったのでしょう」
「何が?」
広道は目を
「すまないが、俺には植物はわからん」
「いえ、これは多分私にしかわからないでしょう」
「うん? 妙な匂いでもするのか?」
凛は目が見えない。だからその鼻と耳で全てを把握する。どこに何があるのかさえ。
そしてその困惑は、広道でもその声から聞き取れた。
「匂いが普段の倍は漂っております。ざわざわととても騒がしい」
「害虫か、或いは草木の病でも発生しているのか?」
「いえ、寧ろ逆です。全てが強度の循環をなしております」
「それは良いことではないのか?」
「いえ、過ぎれば全ては毒となる。薬と同じです。一体どうすればいいのでしょう。元に戻って欲しいのに」
その瞬間、広道は奇妙な声を聞いた気がした。それが何だかわからず戸惑っていると、途端に隣で凛が倒れた。
「おい、凛? 凛、どうした……糞」
広道は急いで凛を抱え上げ、医院に駆け戻る。
「ふむ、疲労かな」
「疲労だと? 凛は突然倒れたのだぞ」
広道は私服に着替えた実道の私室に押しかけて診察を強要すると、実道はあっさりとそのように答えた。けれども広道は心配で仕方がなく、思わず声を荒らげた。おそらく初見のものなら失神しそうな勢いであるが、幸いにも兄である実道は慣れている。
「怒るな広道。私は凛の客観的な症状からの診断を述べている。今は
「しかし」
「ではお前は何と見るんだ、広道」
実道にそう言われ、広道は二の句は継げなかった。確かに客観的な凛の様子には、取り立てて異常はない。広道は実道が不要だと述べる様々な検査を施したが、やはり異常は検出されなかった。
けれども凛は翌朝も目覚めることはなかった。
食事については仕出しを外注すればよかったが、広道はなるべくを凛に付き添うことにした。予断を許さぬ患者はあったものの、当初の慌ただしさは既に鳴りを潜め、あとは手慣れた回診をこなして異常がないことを確認すれば足りた。
それが5日に及んだ時、広道の目には深くくまが浮かび、広道をよく見知った看護婦ですら、すれ違いざまに悲鳴を上げるような有様になった。
「兄さん、寝て下さい」
「医院の患者の病室には入っていないはずだ」
「兄さんが点滴の薬液を取りに来る度に医局が阿鼻叫喚です。それにお怪我の方々が目を覚まされて最初に兄さんが視界に入れば、あの世に行ってしまいますよ。それにもう随分食事を取ってないでしょう? 骨が浮いてまさに死神にしか見えません」
広道は正しく伊予を睨みつけたが、すでにひと睨みするだけで地獄の獄卒も逃げ出すような風情である。
そして7日目だ。
「凛さんの様態は安定しています。何故か衰弱もしていません。兄さん、仕事に戻って下さい」
「馬鹿な。凛を置いて病院に戻れるか」
伊予は溜息をついた。そしてキッと広道をにらみつける。
「いい加減にして下さい。もう何とかできるのは広道兄さんだけなんです」
「何とか……? どういうことだ」
広道は困惑げに伊予を眺めた。
「実道兄さんも倒れました。いえ、凛さんと同じように滾々と眠っています。けれどもそれは実道兄さんだけじゃない、今のこの久我山医院にいる者は私たち以外全てです」
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