第2話 夜の風と草木深し

 けれども広道は、今回の休暇の理由に病院からそんなことを言い渡された記憶があるのを僅かに思い出した。広道が大学病院から追い出されるのは、体調不良か休暇を取らなさすぎかが原因なのだ。そしてその夜、広道を探し回る伊予の声が医院に響き渡った。

「広道兄さん、こんなところで何をしてるんですか!」

「凛が採取した野草を植えておかねばと思ってな」

 広道は医院の敷地ではあるものの、少し離れた所にある薬草園で本日凛が採取した野草類を植え替えていた。凛は珍しい草木を見つければ、採取して増やそうとする性質がある。今日もそれで随分と予定にない徘徊をしたものだ。凛は凛とて毎日食事番として忙しく立ち回っているものだから、そのような機会を自由に許す広道の帰還を待ちわびて、ここぞとばかりに野草を探し回るのだ。

「そんなに適当に植えたらわからなくなるでしょう?」

「凛の畑はどうせこの散らかったあたりだろう?」

「そこは畦です。凛さんの畑はあちら側」

 伊予がカンテラを持ち上げて照らした先は、茫々と草木が生い茂り、一部は密林のようになっていだ。

「これだけだ」

 広道は野草の入った籠を持ち上げる。どうやら意思は固いらしい。伊予にはここで広道を無理に部屋に戻したところで、夜中に広道が再び抜け出してまた植えるだろうことも見えていた。仕方なく伊予もかがんだ。

「伊予?」

「早く終わらせましょう。二人でやったほうが早いもの」

「すまないな」

「兄さんに感謝されるのは気持ち悪いです」

 そうして遠くから新しいランプを下げた3人目の影が現れる。広道の眉間に再び皺が刻まれた。

「凛、俺が植えるから寝ていろ」

「兄さんも寝て下さい」

 伊予も広道を怒鳴るが、どこ吹く風だ。

「広道先生、その草はその植え方じゃ駄目なのです」

 三者三様に溜息を付き、凛も広道も植え終わったら寝ると伊予に誓い、凛の指示に従い、そのやけに生命力の溢れる野草を植える作業を黙々と再開した。


 クピトはその様子を医院の屋根の上から眺めていた。そしてどうしようかと考えあぐねていた。

 クピトは自らの目的を再確認する。あの凛という女と広道という男を添い遂げさせようと思っているのだ。そして目の下にいる伊予という女は広道の妹らしく、みな同じこの建物に住んでいるらしい。そうして再び矢を番えた。そして今度こそてようと、狙いを絞って放つ。

「あっ」

 けれどもその瞬間、再び強い風が吹き、再び矢が逸れた。

「はぁ。なんだか私も熱が出てきたように思います」

「伊予もよく寝たほうがいい」

「風邪っぴきの兄さんに医院を徘徊させるわけにはいきません! これだけは私の役目です! 兄さんを野放しにはさせませんからね!」

「怒らなくてもいいじゃないか」

 クピトがオタオタしているのを影からニヤニヤと見ているものがいた。常城神社の主神、少彦名命すくなひこなのみことだ。この少彦名は極めて小さな神だ。だから様子を見に行くというクピトの羽に潜んでついていくことなど造作もない。


 けれども少彦名はその薬草園に目を見張っていた。

 薬草園は二つの区画にわかれていた。整然とした区画と雑然とした区画だ。目を見張ったのは雑然とした区画のほうだ。そこには雑然というよりは渾然一体と、さまざまな癖の強い、本来同じ畑に植えることができない類の草木までがその生命力を発露させて同居していたのだ。中には神威すら感じるものすらある。神というものは我の強いもので、本来その眷属たる草木が仲良くするはずがない。

 なのに今も、この凜という女は常城神社から抜いてきた少彦名の神気を帯びた草木を、絶妙な配置で植え付けていく。少彦名には凛はあたかもこれらの草木の巫女か何かのように思われた。

 そして少彦名は整然とした方の畑を見た。

 ここは医院らしい。雑然とした区画で生える草木の作用は、個別性が強いだろう。医薬として用いるには、安定して予測しやすい作用をもたらす管理された畑で栽培するというのが理にかなっているように思われる。

 少彦名は医薬と穀物、知識と呪いの神である。だからそのご利益でも与えようと、簡単な加護を与えることにした。そして満足して神社に帰ってしまった。


 その翌朝。広道は一応は大人しく、実道の診察を受けていた。

「広道。具合は本当にいいのか」

「ああ。ピンピンしているとも」

「それでも今日くらいは安静にして下さい。広道兄さんが医院内をうろつけば体調を崩す人が増えます」

「失敬な。この顔は地顔だ」

 広道は額に皺を浮かべ、伊予を睨み付けた。正確にいえば睨みつけているように見えるだけで、本人にそのようなつもりは全くない。けれどもそれが暇にあかせて案内をうろつけば、その鬼のような表情を眺めれば、安静に入院している患者が体調を崩すのだ。

「体調がよいのならば、広道に仕事がある。先程神津こうづ病院から連絡が来た。昨夜、四風山しふうざんの採石場が崩れたらしく、多数の怪我人が出たそうだ」

「何。ならば俺は戻らねばならん」

 ガタリと広道が席を立つのを実道は制する。

「不要だそうだよ。神津病院ではすでに入院患者で溢れ、受け入れられない。それどころか薬も足りないらしい。それで君のいるうちに助かりそうもない患者を送りたいそうだ」

「なるほど。腕がなる」

 広道はやる気に満ちて袖をまくる姿に伊予は溜息をつく。

「広道兄さん、そんな顔をするから患者さんから心臓が止まりそうだなんて言われるんですよ」


 そこからはまさに戦場だった。久我山医院に広道がいるということで、助かりそうにない患者ばかりが回されてくる。広道は旧藩立病院、つまり現神津大学病院の外科部長だ。つまりこの神津で最も腕が立つ。そして久我山医院には伊予がいた。

 伊予はこれでも18の時に西南戦争に官軍看護婦として従軍している。よほどの惨状にも耐性がある。そして兄妹のこと、病み上がりにもかかわらず、息のあった様子で瀕死の患者を次々と捌き、大半の見込みがないと思われた患者ですらも、一命を取り止めさせたのだ。

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