恋の矢 ~明治幻想奇譚外伝
Tempp @ぷかぷか
第1話 春の風と恋の矢
明治17年の晩春。
「
「
小さな木の根につまずいた凛を広道が抱き止めれば、草木の香りがふわりと漂う。すみませんと謝る凛を押しとどめ、空を見ればわずかに陽は傾いていた。自然と広道の眉根に深い皺がよる。予定より随分時間がおしている。
「そろそろ帰らねばならん。夕飯の用意に間に合わぬだろう」
「大丈夫です。本日は牛の煮込みで既に仕込んで御座いますし、その他の副菜も全て完成しておりますので、配膳するだけです」
凛は自信ありげにそう述べた。
凛は
広道は無言で凛の手を引き、足元に石があるだの段があるだの注意を与えながら手水舎まで導き、袖をまくらせた手に柄杓で水をかける。
「ありがとうございます」
「構わん。今日はもう終わりだ。そろそろ俺の目も効かなくなる」
「あら。そんなに時間が経ちましたか」
「おそらく四時すぎだろうが、戻れば陽は落ちているかもしれん」
凛は手ぬぐいを使いながら、ふふふと微笑んだ。
「医院まで戻れば私ができますので」
広道の険のある目元を見えていない凛は、そのように答えた。けれども広道はそれも気に入らなかった。
そんな二人を二柱が眺めていた。
一柱は二人のいるこの常城神社の主神。もう一柱は主神にとっては最近沸いた
「おいクピド。何をするつもりだよ」
「あすこにすれ違う二人が御座いますれば、引き寄せてしんぜようかと」
その声に主神は外を眺めた。その二人の片方からはその差配する医薬の気を感じ、片方からは同じく草木の香を感じた。そしてクピドと呼ばれた方も、その二人から差配する愛の気配を感じ取っていた。
けれどもクピドがこの国に現れたのは極最近であり、この国の人間の機微というものが未だよくわからなかった。レディファストの国から訪れたクピドには、仏頂面の広道がその内心を隠して凛を嫌っているような態度を取っているようにしか見えなかったのだ。クピトは自らの役目を恋の仲立ちと自認している。
「あの御仁の様子では、嫌っているようにも見えましょう」
けれども日の本の存在である主神は、なんとなく日本人の感性として、二人が過不足なく好き合っているのだろうなと感じていた。
「ふうん、それでお前はどうするつもりなのだ」
「取りいだしたるこのクピドの弓にて射ますれば、たちまち目の前の相手に思いを寄せまして御座候」
そしてクピドはその背から小さな弓矢を取り出し、構えた。瞬く間に狙いすまして矢を放ち、けれどもその瞬間、凛がよろけたのだ。主神がこっそり強い風をふかせたのだとは、クピトは気づかなかった。
「あっ狙いが」
「どうするつもりだい?」
「……仕方が御座いません。私めが顛末を
何より、二柱とも、極めて悪戯好きだったのが運の尽きだ。
「どうした、凛」
「いえ、広道様、立ちくらみでしょうか」
「今日は随分歩いたからな」
広道はそれとなく凛の首筋に手を当て、やや熱を持っているのを感じた。そのためか、凛の呼吸が僅かに早くなっているのに気が付いた。広道は医者であるが、その専門は外科である。内科を専門とする兄の
「ふむ。まあ風邪の初期症状だ。幸い今日の夕飯は既に用意してくれている。あとはゆっくり休めば良い」
「ありがとうございます、実道先生」
凛は深々と頭を下げた。
「それよりお前だ広道。顔が赤いぞ。測ってみろ」
「お前こそ休んではどうだ。そもそもお前のことだ。大学病院から休めと追い出されたのだろう? 案外お前の風邪が凛に移ったのかもな」
「む。大分復調したぞ」
「ぶりかえしたんだろう。
「勘弁してくれ」
広道はわかりやすく顔をしかめた。伊予とは実道と広道の妹で、この久我山医院で看護婦をしている。患者の健康管理には極めて厳しいのだ。つまり広道が院内を彷徨い歩いて不用意に風邪引きを増やさないようにとのお目付け役である。
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