第20話 セイレーン



「ッ!?」


 マーブル模様の上空に、何かが浮かぶ。

 それは巨大な人影で、じわじわと姿を露にする。


 長い髪を揺蕩わせ、くっきりとした目鼻立ちと白い肌が覗いてくる。閉じた瞼が開き、魔族特有のあちこちに星のような光が散った光彩が飛び込んできた。真っ赤な唇が弧を描き、引き上げられた口の端から刃の様な歯が覗く。


 唐突に白い腕が振り下ろされ、唇と同じ赤で彩色された爪が、がきん、と音を立てて「空」に突き刺さった。


 その様子に、レイナははっと目を見張った。


 巨大なセイレーンは悔しそうに目を細め、上空で身をくねらせる。その様子がまるで悠々と「泳いで」いるように見えたのだ。


「そうか……雲じゃないんだ……」


 自然とレイナの唇から言葉が漏れた。空を覆う、黒いマーブル模様。それは雲ではなく、「水」だ。


 頭上にあるのは恐らく、聖水を運ぶ水珠と同じ、透明な「容器」なのだろう。レイナたち同様運んできたのか、それとも魔族の技術でその場で構築できるのか不明だが、そこにセイレーンが存在できる水を貯めている。


(聖水運搬への当てつけか……?)


 どう考えても、レイナたちが運ぶ水珠よりも容量は多いだろう。魔族側の技術を見せつけることで士気を折るつもりかもしれない。


 ゆうゆうと、容器とはもはや呼べない、上空に浮かぶ巨大な「水槽」の中で、身をくねらせるセイレーンがレイナを見つけるとその目をすうっと細くした。


「ッ」


 間髪入れずに、教会の鐘をがらんがらんと鳴らすような音が周囲に響き渡り、耳栓を越えて脳へと侵入してくる。


(セイレーンの歌ってこんなんだっけ!?)


 もっと穏やかな……凪いだ海面を漂う甘い歌声だったはずだ。それが巨大な彼女が歌うものは教会の尖塔に取り付けられた十個の鐘が無秩序に打ち鳴らされるのに等しい。


「うっ……」


 そして、音にも圧があるようにレイナの身体を上から押しつぶしてきた。びりびりと肌が震え、がくりと四つん這いに身体が頽れる。あちこちで窓ガラスや屋根瓦が砕ける音が響き、レイナは必死に両手両足を強張らせた。


 あまりの音量にくらりと目が回り、意識が遠のく。


(駄目だッ!)


 咄嗟に吹っ飛ばされてきたガラスの破片を握り締めて、レイナは痛みによってどうにか正気を保とうとした。だが掌に走った鋭い痛みはじわじわと遠のき、焦って縋るように力を込めた。


 転瞬、ふっと重圧が解け、鐘の音が遠のいていく。弾かれたように立ち上がり、肩で息をしながら顔を上向ければ、巨大な魔女が挑発するように微笑むのが見えた。


 それは見惚れるほど美しく……艶やかだった。

 容姿にも惑わされて、彼女を追って海を進み帰らぬ人となる者もいると聞くが……納得だ。


 実際、じゃりっと石を踏む音を聞いて振り返れば、村を出ようとしていたはずの住人や騎士が、魅入られたように空を見上げてふらふらと近づいて行くのが見えた。


「しっかりしろッ!」


 鋭い声で叱責し、レイナは歯噛みする。


 たとえ誘惑されたとしても、空へは登れない。……普通なら。だが屋根に上ろうとする住人を見て、ざあっと全身の血が引いた。


 あそこから飛び降りれば絶対に身体の骨を折る。下手をすれば死ぬだろう。


「正気を保て! あれは魔族だぞ!?」


 耳栓は歌には多少効果を発揮するが、艶やかな笑みが持つ魔力には何の力もない。


(くそっ)


 村の外に避難させたとはいえ、まだうろうろしている者もいる。彼らが全員、引き寄せられたように村で一番高い時計塔へ向かうのを見てレイナは腰の剣に手を添えた。


 剣戟で、物凄い重量のある海水を蓄える水槽を壊せるとは思えない。だが何もせず手をこまねいているわけにもいかない。


(どうすれば……!?)


 その瞬間、はっとひらめくものがあった。


 水槽の下で業火を燃やせば、セイレーンの命の源ともいえる海水を沸騰させることができるのではないか?


 突拍子もない考えだが、直火があたる部分からセイレーンが撤退することはあるだろう。そうして底面から追いやり、水面に彼女が顔を出せば、飛翔魔法でとんだ数名で上空から聖水を浴びせることができるはずだ。


(また給水に戻らないといけないけど……コイツを退治しない限り終わらない)


 どうやって結界を抜けてきたのか。もしかしたらこの海水を蓄える器には結界から対象を護る力があるのかもしれない。


 だとしたら……今ここで、どうしても、捕獲したい。


 業火なんてそう簡単に作り出せないが、レイナは持てる魔術のうち最高の火焔術の魔法陣を大地に描いていく。


 その中心に立ち、黒い渦に向かって剣を突き上げた。


火焔竜の業火ヘルドラゴンファイア


 最後に魔法陣に刻んだ文字と同じ言葉を詠唱すると、レイナの頭上に炎の柱が立ち上がり、掲げる剣先の指示に従ってセイレーンを包む水槽の底面に突き刺さった。


「ティントレイ卿!」

「業火が使える者は続いて!」


 金色の炎に舐められた底面が真っ赤に燃え上がる。驚いたセイレーンが姿を消し、一応の効果があると奥歯を噛み締めた。


 騎士の中には魔術が使える者も数名いるが、魔導士と同じくらいの力を発揮できる者はレイナやジョイス、隊長を含めたあと三人ほどだ。


(先発隊にいてよかった……)


 行き先に魔族が何かを仕掛けてくることは想定内だったため、第一陣には精鋭が集められている。

 伝令を飛ばし、村の外からすぐに駆けつけてきた三名に水温上昇の任を任せ、レイナは聖水を手に引き返してきたジョイスに軽く頷き返した。


「われわれは上空へ。海面から顔をだしたセイレーンを叩きます」

「わかった」


 未だぼんやりした様子だが、人手が少ない。


 聖水をどれだけ使うかわからないが、身体に掛かれば激痛なのは間違いないだろう。


(魔力……持つかな……)


 先程の火焔の業火で結構な量の魔力を消費した。飛行魔法も大量に魔力を消耗する。一抹の不安が胸に兆すが、レイナは首を振って払った。


 それよりも先に、なんとしてもセイレーンを倒し、魔族の技術を解明したい。


 深紅のマントを風になびかせ、レイナは水珠を掴んだまま飛翔する。巨大な半球のような底面を晒す水槽の上部は、黒と鈍い緑色に変化する水面が見え、普通の海水と違ってどこかねっとりして見えた。



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