第19話 異変
街道から村へと続く道の境目には木製の門があり、そこから先が逗留予定の村なのだが薄暗く、不気味な空気が流れている。
遠くから見ると積乱雲のようだった黒いものは、底面が油を混ぜた水のような模様を描き、黒と紺、暗い灰色と深緑を描いて渦を巻いていた。
村の入り口よりだいぶ手前に馬を止めた騎士が、やって来るレイナを見て安堵に顔を歪めた。
「ティントレイ卿」
「何があった? ジョイス副隊長は!?」
馬上から声をかければ、騎士は唇を噛み、真っ青な顔で村へと視線を向ける。
「我々がこの地に到着した時はいたって普通でした。村長から歓迎とねぎらいの声をかけられて、逗留予定地へと前進を始めたんです」
ところが、しばらくして急に辺りが暗くなり、見上げると空が渦を巻き、あっという間に真っ暗になったという。
「俺が村に入る直前、副隊長が駆けて来て、後退と停止を命じられました」
ジョイスはその後また、中へと駆け戻ったという。
渦を巻く雲の様なものを見上げ、レイナは唇を噛む。この中で何かが起きている。
(聖水輸送の妨害か)
そうだとしたら、この怪しげな空模様が覆う中で何が起きているのか。
(うかつに飛び込んで何かが起きてはまずい。けど、飛び込まないと何が起きてるのかわからない……)
現在、この隊を指揮するべきジョイスはおらず、権限はレイナに移っている。
真っ先に思いつくのは、上空を覆うこの謎の雲のようなものの確認だが、風魔法を応用した飛行魔術は魔力の消耗が激しく、長時間飛ぶことはできない。
(どうする……? 中の確認が先か?)
上空をどうにもできないのなら、中で何が起きているか確認するべきだ。
ふうっと腹から息を吐き、それからゆっくりと吸い上げる。
「中の様子を確かめてくる。三人、付いてこい。それも距離を開けて。一人は入り口で待機、もう一人はその中間、最後の一人は私が指示した場所から動かないよう。何かあった場合、叫んでもいい、入り口の一人まで状況を伝えろ。入り口のやつは、異変を聞きつけたら直ちに精霊の都まで戻って──」
この要請だけはしたくなかったが、これ以上被害を増やすわけにはいかない。
「──……アレクシス隊長を呼んで来い」
はいっ、と短い返答が来て、進み出た三人を引き連れレイナは徒歩で先へと進む。
門の手前に一人を立たせ、二人を連れて薄暗い中へと進んだ。
万が一、瘴気の様なものが立ち込めていてはいけないと、全員マントで口を覆い、素早く周囲に目を配る。
早足に……だが慎重に中を進みながら、一人を村の中央付近に配置し、彼女は逗留予定地へと真っ直ぐに進んだ。
(人の気配がない……残っていた隊の人数を考えると、中に十名程度は居るはずだが……)
胸郭を壊す勢いで心臓が脈打ち、レイナは呼吸を最小限にとどめながら奥へと進む。
村の奥に防風林があり、結構な広さがあるそこを逗留予定地としていた。猟場管理人の小屋もあり、村長の屋敷も近く、隊長やミス・ダイヤモンドに泊まってもらえるため丁度良かったのだ。
林の中には転々とテントが立ち、野営の準備を始めていたことがうかがえる。
その様子を横目に、逗留予定地の手前に最後の一人を配置して、レイナは更に先へと進んだ。
(鬼が出るか蛇が出るか……)
ゆっくりと通りを行けば、ぽっかりと開けた草地に出た。
生ぬるい風が膝上まで生えた草を波打たせ、防風林が嵐の前のような不安を煽る葉擦れの音を立てる。
夕方と同等の暗さの中、灰色に沈んだ草地を見渡すレイナははっと息を呑んだ。
丈の高い草に隠れるように何名もの人間が倒れ伏していた。
危うく叫び声を挙げそうになりながら彼らの元へと走り寄る。
(ジョイス副隊長に……村長!?)
他にも中に入って設営に当たっていたと思しき隊員や手伝いを申し出てくれたのだろう、住人たちが倒れ伏している。
慌てて膝を付き、うつ伏せに倒れている副隊長をひっくり返す。
口元に耳を当て、首筋に指を当てる。呼吸と脈拍を感じ、ほっと胸を撫でおろした。
(寝ているだけ……? いや、そんなわけない)
ぐ、と肩を掴んで揺さぶり、意を決して頬を叩く。かなり思いっきり……ばしん、と叩いてレイナの手が痛むがジョイス副隊長は目を覚ます気配はなかった。
(……これって……)
ぐっと奥歯を噛み締め、レイナは視線を上空へと向けた。
結界装置切り替えの間、海からの魔族の侵入を撃退するのが、レイナたち宵闇騎士団に課せられた任務だ。
水平線からやって来る魔族は先に魔物を陸地に向けて放つ。その後、魔物を作り出した魔族が乗り込んでくるのだが、その先鋒にいた魔族が……歌によって前線の騎士たちの意識を喪失させたのだ。
海洋を住処とする、美しい女性の外見と長い魚の尾を持つ魔女……セイレーン。
彼女たちは歌により対象を眠らせた後、彼らの意識を操り自分の元へと誘い喰い殺すという。
だが彼女たちは海から出られないはずだ。
ここは山の中で、海岸は遠い。こんな場所にセイレーンがやって来ることはまず考えられなかった。
(でも……意識を喪失していることを考えると……)
似たようなものがいるのかもしれない。長い戦闘の歴史で、セイレーンが魚の尾ではなく、鳥の翼を持っていた、なんて伝承もあった。
(でもこれなら対処できる)
セイレーンは歌で対象を操る。現在辺りは静かすぎるほど静かで、風の音しか聞こえてこない。今のうちに、彼らの目を覚まさせ、この村から退避するしかない。
気付けには聖水が役立つはずだ。
水珠の一つを借りれば事足りるだろう。
(急いで戻って耳栓をして)
馬に括り付けられた荷物にはありとあらゆる魔道具が入っている。その中に、対セイレーン用の耳栓も用意されていたはずだ。
上空の空を覆う黒い渦が気になるが、今は住人と副隊長を助けることが先決だ。
レイナは速足で村を通り抜け、配置していた隊員を回収して村の外へと出た。水珠の一つをお借りすることにして、十名程度を連れて再び村へと引き返す。
とにかく素早く、全員を外に出すのが先決だ。
珠を一つ下ろして、魔術を施された封印の金のプレートに自分の指輪を当てる。水珠の側面を開けたが、聖水は揺蕩い零れ落ちることはない。そこから村の家の軒先にあったバケツを借りて大急ぎで配り始めた。
倒れる人々の顔にひしゃくで汲んだ聖水をかけていく。
すぐに目を覚まし、ぼんやりした顔でふらふらと立ち上がる住人や騎士たちを先導し、村の外へと連れていく。ようやく目を覚まし、未だ怠そうなジョイスにレイナは耳栓を渡した。
「急いでください。今は歌が止まってますが……」
「悪い。ていうか、めちゃくちゃ頬が痛いんだけど」
「……気のせいです」
笑顔で告げて最後の一人を連れて村を出ようとした。
(でも……眠らせるだけで連行しなかったのはなんで……?)
今、歌が響いていないのもどうしてなのか。
刹那、レイナはぞわりと全身の肌が粟立つのを感じ、耳栓を押し込むと上空を振り仰いだ。
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