第2話 再び現世に立ちたいと願うかい?

 人里離れた深い森の奥に、木々に囲まれた一軒の洋館が建っていた。


 石造りで闇と同化しているような感じで、遠目からではそこに洋館があるとはわからない。まるで人目につかないよう隔離されているみたいだった。


 城門は特になく、扉を開けられれば誰でも出入りできるようになっている。


 二階建てで、二階の一番奥の部屋に一人の男がいた。黒いタンクトップの上に袖の長い黒いシャツを着用し、下半身を纏うズボンとパンツも同じく黒で揃えている。


 手入れされていない頭髪は伸び放題でボサボサ。下ろされた前髪で額はおろか目元もすっぽり隠れている。


 腰に届きそうな髪を紐で乱雑に一本にまとめ、左肩から前へと流していた。髪も瞳も黒なため、明かりのない室内にいれば、見る者に不気味な印象を与える。


 美しい女性の映った写真を胸に抱き、尽きない涙を流して嗚咽を漏らす。それは彼の日課というか夜課になっていた。


 大切な女性を思い出しては泣き、朝が来れば疲れて眠る。そうして夜の訪れとともに目覚める。その繰り返しだった。


 何も変わらない。ただ時が過ぎゆくだけの日々。いつか、自らも朽ち果てるのかもしれない。


 それでもいいと思った。そうすれば最愛の女性に会える。


 今夜も洋館の二階で窓を開け、彼女が愛していた夜風のにおいを嗅ぎながらすすり泣いていた時、普段にはない異変を察した。


 彼の鼻孔が捉えたのは血の香りだった。


「……もしかして、母さん? 母さんが帰ってきたの?」


 しばらくベッドを乗り降りするだけの生活を送っていた男――ブラッド・デスライズは立ちくらみを覚えた。視界が不快な銀色に染まり、しばらく身動きができなくなる。その間に血のにおいはますます濃さを増した。


 誰かが殺されたのは間違いない。ブラッドはふらつく足取りで玄関へ向かう。


 ドアを開け、鍵もかけずに森へ出る。とにかく事態を確かめたいブラッドは、自分が裸足なのも気づいていなかった。


 木の枝が刺さろうとも気にせず、館から森を抜ける一本道を歩く。


 明かりは持っていない。夜目もきかない。ブラッドが真っ直ぐに進めるのは、森の中を漂う血のにおいのおかげだった。


 かろうじて木々があるとわかる程度の黒を基調とした視界の中、地面に違う色を見つける。それが赤だった。


 数歩歩く。ブラッドのつま先に何かがぶつかる。木よりも硬い何かだ。腰を落として足元を確認する。瞼を閉じている人間の――女性の頭部だった。


「……違う。母さんじゃない。でも……似ている……」


 見下ろす女性の穏やかな死に顔を見て、ブラッドはすでにいなくなった母親の最期を重ねた。


 微笑むように人生を終えた最愛の女性。今も夜な夜な思い出してはすすり泣く原因となっている女性。


 母親の死後、一人で過ごしてきたせいか、ブラッドは寂しいという感情に支配されていた。だからかもしれない。すでに人生を終えている名も知らぬ女性を、館へ連れ帰ることにした。


 両足を持ち、地面を引きずるようにして女性を運ぶ。血の染みが地面にできる。


 詳しく調べていないので不明だが、どうやらこの女性は心臓を一刺しにされたみたいだった。


 不思議なのは、先端の尖った武器で貫かれた痕が四つある点だった。


 死因を調べるのが目的ならもっときちんと見ただろうが、生憎とブラッドが物言わぬ女を館に連れ帰る意図はそこになかった。


 明かりひとつない館の中を、相変わらず女を引きずって歩く。


 正面には広大なホールがあり、奥が応接室となっている。出入口の左右に上階への階段があって、二階は円を描くような廊下と五つの部屋で構成されていた。


 外出するまでブラッドがいたのは、そのうちの一つ。五つを並べた場合、丁度真ん中に位置する最奥の部屋である。


 今のところは二階へ行く必要はない。階段を一瞥して、ブラッドはホールを出た。続き部屋となる応接間にも用はなかった。


 ホールと応接室を挟むようにして二本の廊下が奥に向かって伸びている。


 右側の廊下には隣接する形で三つの部屋がある。手前から空き部屋、食堂、キッチンとなっている。


 各部屋の扉はすべて木製で、鍵はあるが、両親の死後、一人で館に住むブラッドには必要がないのでかけてはいなかった。


 食堂はキッチンとも繋がりがあるものの、広さは他の部屋と大差がない。


 昔はそれなりの人数がこの洋館で暮らしていたみたいだが、大勢というわけではなく、大規模な食堂は不要だったのである。


 それでも席を用意し、詰めて座れば三十人以上が一緒に食事するのも可能だった。


 左側の廊下は手前が空き部屋で、真ん中は両親が生前使っていた寝室。奥は倉庫になっている。倉庫の奥隣にはトイレと個人用の小さなシャワールームもある。


 そこで廊下は左右共に曲がり、合流を果たす。応接室から出てくる扉があり、向かい合う形で裏庭に通じる扉もある。


 裏庭は、この館で生涯を終えた祖先たちの墓場となっていた。ブラッドの両親も、そこに埋葬されている。


 館の一階には、ところどころに二階を支える太い円柱がある。相当立派に作られており、地下にも刺さっているので多少の地震ではビクともしない。


 築何百年も経過しているのに、いまだ使用可能な状態で存在しているのだから頑丈さは別格である。


 それでも老朽化は避けられず、壁に小さな穴が空いている場所もあったりするが、ブラッドは補修したりはしていなかった。業者を雇う予定もない。特に不便さを感じていないからだ。


 正体不明な女の遺体を引きずって、ブラッドは主のいなくなった寝室に入る。


 眠りに来たわけではない。ここにはいざという時の脱出経路にもなる、地下へ通じる隠し階段があった。


 そのため、昔から当主となった者はこの部屋を寝室にしていた。


 父親の死後は、母親が最期を迎えるまで使用していた木製のベッドの裏に、床を開閉する魔導スイッチがある。


 ブラッドはしゃがみ、探るようにして、ベッドの裏側にあるスイッチを押した。


 部屋の左奥隅の床が開く。遺体を落とし、ブラッドは梯子の手すりに捕まる。


 何度か入ったことのある地下室へ慎重に降り立ったブラッドは、すぐ側の壁に備えられているオイルランプに火を灯した。しばらく使っていなかったが、どうやらまだ大丈夫だった模様だ。


 地下室は広い。一階部分がそのまま一室になったような感じだ。


 洋館と同じく石で造られており、温かみは感じない。床には無数の魔法陣が描かれていて、皆で仲良く遊ぶためのスペースでないのは明らかだ。


 ブラッドは落としたせいで損傷が激しくなった遺体を、力任せに中央にある一際大きな魔法陣まで移動させる。


 目的の位置に到達したところで手を離し、周囲を確認する。


 机などはひとつもない。あるのは床に散乱する無数の書物だけだ。散らかしたのはブラッドであり、最初から片付けられていないわけではなかった。


 この地下室は祖先から続くブラッドたちの一家、デスライズ家の避難場所なだけでなく実験場でもあった。地下室の奥には、裏庭の墓地と繋がっている脱出路も存在する。


「すぐにでも魔法は発動できそうだ。まずは魂の意思を確認しよう」


 右手を前に伸ばし、呪言を口にする。


 そのうちに青白い輝きが、ブラッドの右手に宿った。見た目は美しいが、その光は見る者を無性に不安にさせる輝きを放っている。


 ブラッドは淡々と呪言を並べる。


 青白い輝きが右手と同化するように激しさを増し、やがて突然消えた。


 呪文が失敗したわけではない。むしろ逆で、成功し証だった。頭の中で繋がった感覚を得て、ブラッドは口を――。


「私の体に何をしてるのよ!」


 ――開こうとしたところで顔を歪め、額に人差し指を当てた。原因は頭の中にキンと響いた甲高い声である。


「僕も手荒に扱いたくはなかったけど、腕力に自信がないんで、遺体となった君をお姫様抱っこで運ぶのは難しかったんだ」


「でもでも、もう少しやりようが――って、あれ? 私の声が聞こえてるの?」


 急にきょとんとした声の調子に変わる。顔が見えていれば、ひと目でわかる表情をしていたに違いない。


「儀式を行って、僕の魂の一部を君の魂と繋げたんだ」


 ブラッドの説明通り、脳というより魂を通じて会話をしているのは、殺されてしまった少女だった。魂の姿までは見えないが、彼女の遺体の下に描かれた魔法陣の力で声を聞けるようにしたのである。


「魂を繋げたって……」


「そうでもしなければ、肉体を離れた君の魂とは会話できないからね。さて、まずは君の名前を聞かせてもらえるかな」


「シャ、シャリア……シャリア・イィルウよ」


「ではシャリア。君に問うよ。再び現世に立ちたいと願うかい?」


 一瞬だけシャリアは不思議そうにしたが、ブラッドの発言を理解するなり驚きを露わにした。


「現世って、私を生き返らせるってこと!?」


「そうだよ。僕なら可能だ。ただし、普通の人間とは違う。外見や意識は生きている頃と変わりないけれど、心臓は動いていない。一番近い表現だとアンデッドになるのかな」


「それってゾンビ!? 私の体、ぐちゃぐちゃに溶けちゃうの!?」


「……僕の話を聞いてたかな。外見は生きている頃と変わらないと、つい先ほど説明したよね」


 ブラッドはため息をつき、額を手を押さえた。


 亡くなった母にどことなく似ていると連れて来たまではよかったが、魂と会話すると大違いだった。


 ブラッドの母は穏やかで気品があり、どこか儚げだった。亡くなって結構な時間が経過しようとしているのに、いまだに最期の瞬間を思い出せば涙が止まらなくなる。


「そんなふうに呆れなくてもいいでしょう。いきなり生き返れると言われても、心の準備だってできてないし。あっ! それよりガラハドはどうなったの。それに魔族だと言ってたあの女の人も」


「ガラハド? 魔族の女?」


 聞き慣れない名称にブラッドが首を傾げると、少女の声が命を失った瞬間の説明をした。

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