第23話 鏡花水月

 フロアのテーブルとカウンター席しかない詰め詰めのカフェ。混んでいるのだが町中のそれに比べるとかなり静か。病院着の患者さんたちがのほほんと過ごしている。そんな牧歌的な空気に当てられて、俺も特に何も考えずぽけーっと座り尽くしていた。このところ立て込んでいたので疲れが出たのかもしれない。丸テーブルの中央に乗ったフローズンは一気に飲みすぎたせいで、残った部分が溶けるのを待つ羽目になっている。


 そんな折に声をかけられた。


「望月くん」


 顔を上げて見れば、ツヤツヤの黒髪ショート。涼し気なシースルーのカーディガン。高そうな膝掛けは丁寧に四角く折りたたまれている。その眼光の強さと表情の拙さから心理的な距離を感じるが、本人にそんなつもりはありはしない。


「ああ、美鈴。おはよう」


 瀬戸見美鈴だ。偶然の邂逅だが、この病院で出会うのは不自然なことではない。


「うん、おはよう」


「あら、美鈴さんのお知り合い?」と尋ねたのは車椅子を押していた女性だ。おそらく美鈴のお母さんだろう。比較的にお年を召しているようだが、物腰穏やかでお上品な印象の人だった。


 美鈴はマイペースに母親を無視して車椅子を進めた。俺の右隣に来るので何かと思っていると、唐突に右腕を取られる。危うく持っていた携帯を落としそうになったくらいだ。美鈴の体温は俺よりも僅かに高い。

 美鈴は俺の手首の傷を眺めているようだった。もう何かを貼ったりする必要もない、真っ白な傷痕だけが残されていた。幅四センチの派手な思い出。


「ちゃんと治ったね」

「ああ、もう何ヶ月か経ってるしな」





 美鈴のお母さんは、挨拶もできておらず申し訳ありませんと何度も繰り返し頭を下げた。俺の手元にお金を押し込もうとしてくるのをなんとか拒否していたのだが(既に十分な治療費を学校経由で頂いているので)、美鈴に「迷惑、ウザい」と席を外すよう促されれば一転、体を翻してまあまあと口元を隠しつつ去っていった。なかなか調子のいい人だ。


 美鈴はチャイティーを膝の上に抱えつつジッと俺を見続けている。


「なんで病院に?」

「えっと——」


 ちょびちょびとフローズンを処理しつつ見返すのは美鈴の胸元。顔を見ると必ず目が合うのが少し慣れない。とはいえ胸ばかり見ているのもマズいとは思うのだが……。春夏李なら「変態〜」とか茶化してきそうなところ。


「春夏李が精神科の案内状を貰える機会があってさ」

「逮捕」

「あ、ああうん……そうそう。で、本人は嫌がるんだけど半ば無理やり連れてきてるんだよ。今日は三回目の受診」

「炉端さん一人では受診しない?」

「そういうこと」


 ポコンと鳴った携帯を見れば春夏李「長引きそう」というメッセージに加えて「萎え〜」というスタンプが届いている。


「……なあ美鈴、折り入って相談があるんだが」

「なに?」


 俺はこのとき美鈴の病気を利用した。こんなことは以前までの俺なら気を遣って言わなかったはずだ。傷つけやしないかと恐れて口から出せなかったはずだ。


「生まれながらに病気を持つ者として、春夏李にアドバイスをくれないか」


 しかし実際には言ったのである。それは春夏李のためを思えばこそ踏み込んだアクセルだったのかもしれないし、他の誰かの影響を受けたのかもしれない。

 あるいは——人の領域に立ち入ること、踏み込むことを恐れていては、何も解決できないと知ったから——かも、しれない。


「頼む」


 俺が想像していた反応は、美鈴がよく見せるきょとんとした表情だ。こともなげに「いいよ?」と答える様子を予見していた。


「いいよ」


 だから、美鈴が初めて見せた微笑みは、あまりにも予想外で、かなり鮮明に記憶に残った。


「友だちの相談に乗るのって、初めて」


 この言葉を受けて俺はやっと、これまで「病気の人間」を庇護対象として、保護すべき存在だと認識していたことに気付いたのである。





『だってそれは——病人と呼ばれることを誹りと捉えるのは——病人を下に見ていると認めることじゃん。やちとあんま変わんないよ、それ』





 俺はこのときになってやっと、初めて、病気の人間を対等な相手として、頼りにしたのだった。


「ありがとう、美鈴」





 車椅子を押して院内をぶらつく。白いタイル張りの床。美鈴の示す方面には人が少なく、車椅子の進む静かな音すら耳に入った。


「——だから春夏李もカウセリングを受けるのは初めてじゃなくてさ。というか本来は定期的に受けなくちゃ駄目なんだけど。もう何年も受けてなかったらしい」

「気持ちは……分かる」


 美鈴は廊下を曲がるように腕を上げた。従って進めばネオンテトラの水槽に辿り着く。夜間外来の待合室で、今は誰もおらず、電灯も最小限だった。水槽のライトだけが、薄暗い待合室を照らしている。

 四、五歳くらいの女の子が一人だけ、水槽を指でつついて遊んでいた。挨拶すればぺこりと小さく頭を下げる。

 車椅子を興味を示した女の子に美鈴は尋ねる。


「座ってみたい?」

「えっ……いいの?」


 美鈴はおもむろに手すりを掴み立ち上がった。慌てて手を貸せばしっかりと体重をかけられる。美鈴は次に待合席の背もたれに手をついて、慎重に力を移しつつ席についた。俺の右腕に手をかけたまま、ふうと息をつく。


「どうぞ」


 女の子は驚いて俺の方を見た。俺も困って美鈴を見るが、美鈴は首を傾げるばかりである。改めて女の子に向けて頷けば、おずおずとして車椅子に上った。すぐに興味津々になり、タイヤの輪を持って車椅子を前後させ始める。


「楽しい?」

「面白い!」


 美鈴の表情は頑なだが、声には多少感情が乗るようだ。女の子の様子を受けて喜んでいるのが伝わってくる。


「お母さん、いつもこんな感じなんだ」と言う女の子に尋ねたのは俺だ「君のお母さんも車椅子を使うの?」


「うん。てんかんっていう病気なんだって」


 ハッとして美鈴を見た。美鈴は何かと見返してくる。


「お姉さんは?」

「私? 私もてんかんの一種」


 ここまで来て、美鈴は俺の視線の意図を察したようだった。


「……私も娘を持つことがあるかな」

「あるかもしれないな。俺も、美鈴も」


 じっと水槽に目をやって考え込んだ様子の美鈴の隣に座る。女の子は「ありがとうございました!」と元気に挨拶をして去っていった。薄暗い待合席にエアポンプの音だけが小さく響く。一分か二分ほど経って、美鈴から口を開いた。


「治療を受け入れることは、自分の病気を受け入れること。自分が『違う』と認めること。それは、難しい」

「美鈴も難しかったのか」

「私も、家族以外の人に頼るのは恥ずかしかった。他の人と同じようにできないことが悔しかった。感謝することが嫌だった」


 「でも」と美鈴は続ける。


「自分を受け入れないと、『その先』が見えなかった。自分の未来、将来、夢。現実と環境。具体的に考えるには、自分が多くの人と違うことを受け入れないといけない」

「それには……何かきっかけが必要なのか?」

「時間」

「時間か……」

「それと、運命」


 つい「う、運命?」と聞き返してしまった。


「うん。運命的な——因果」

「びっくりした。美鈴ってロマンチックなんだな」


 俺は運命論が嫌いではないが、しかし美鈴がそんなことを言うのは意外な気がした。応報の幻想を信じるには理不尽な身の上にあるように思えた。とはいえ流石に、自分の人生の幸と不幸については、既に折り合いが付いているということだろう。


「望月くんと炉端さんは鏡合わせの運命にあるんだと思う」


 このときは話半分だった。


「鏡合わせ?」

「手首の傷が左右反対でしょ?」

「ああ。なるほどそういうことか。面白い着眼点だ」

「もしかして望月くんも逮捕されたことがある?」

「——あるよ。凄いな、確かに」


 いや、後になってももちろん、心の底から信じてなんていなかっただろう。


「ならば炉端さんが自分のことを受け入れられるのは——」

「俺が自分を受け入れたとき?」

「そう」


 だがこの「まずは俺が」には不思議と納得したのである。筋が通っているように見えた。

 とはいえ根拠なんてない。多分、努力信仰にすがり付くようなものだ。何かを頑張ればどこかで報われるだろう、そんな風に錯覚しているだけ。

 それを信じたのが俺だけだったならば、そう切り捨てたかもしれない。

 けれど美鈴は気休めを言う人間ではない。


 美鈴はお姫様のように手を上げた。下から持って体重を支え車椅子まで導く。美鈴は手首の傷痕にキスをすると、驚く俺をのぞき込んで、両の頬を僅かにだけ緩ませた。


「祝福を」





   四章「落月屋梁の想い」 ここまで。

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