五章 一億五千万キロメートルの旅路

第24話 令月祭—前夜

 午後九時十五分に授業が終わって、部活はそれから十時まである。春夏李と共に美術室に訪れれば、唯一の先輩が、ひいひいと泣きながら四方一メートルくらいあるパネルに絵の具を塗りたくっていた。


「ふええん、ふええん、間に合わないよう」


 三つ編みに眼鏡という古風なタオク女子ルックを擁する、泣きべそをかきながら下絵を塗りつぶしている我らが部長の名を阿知賀雅楽(あちが・がが)という。親に名前で相当遊ばれている。こんな名前なのでガガガ文庫を布教してみたらこんな見た目なのにライト文芸系じゃなくて青春ラブコメ系にハマった。青春コンプレックスに深く突き刺さったのだという。せっかく刺さったならまだ高校生なのだから実践の方向に熱意が向いてほしいのだが、あいにく性格が逆張り一辺倒で得意技は冷笑腐しこき下ろしの最悪人間なので難しそうだ。だが一説には、主人公と男友達枠とのBLを描きまくって満喫している彼女の現状、これもまたれっきとした青春の一つの形なのだという(本人談)。


「先輩、まさか今からパネル作るつもりですか。もう三日後には令月祭ですよ」


 土日を越えればもう文化祭である。当学校では「令月祭」という名を冠している。「令和」の由来になった「令月にして風和らぎ」の「令月」だ。めでたい月、という意味らしい。夜間定時制らしいネーミングと言えるだろう。今年は二日目が十月の満月に当たっているらしく、配布物には満月の令月祭というキャッチコピーが踊っている。

 雅楽先輩は俺たちを見ておののきわななき両腕を振り上げた。さながら角から出てきた子どもに驚かされた猫。


「お、おおお!? 望月氏に炉端氏! き、来ておったのか!」

「ボクらほとんど毎日来てるよ」

「いやあのそのだな。拙者ビックリするから声をかけてほしいのだよな」

「今かけましたよ。もっと遠くからだと美術室の外からになりますよ」


 阿知賀先輩はペコペコと謝ると、しかしすぐにパネルに視線を戻した。


「あ、来たばっかりのところにアレなのだが……バケツを洗ってきていただけないだろうか」

「いいですけど」

「かたじけない」


 俺が先輩の傍のバケツを取り、春夏李は先輩の傍に着いた。


「雅楽さんはどうして今になってほとんど下地のパネルに取り組んでいるんだい?」


 美術部が令月祭で展示するパネルの作成には六月からの全期間が当てられていた。これが余裕のある期間設定だったのは事実だが、それはそれとして二日三日でパネルが完成することもない。土日通い詰める必要があるだろう。


「というか阿知賀先輩ってパネルもう作ってましたよね。ほらあのでっかいやつとか」

「あ、あれは……盗られたのである!」

「盗られた?」

「これ顔出しパネルにできるねって、表に飾られることになったのだ」

「え。勝手にパネルに穴開けられたんですか。阿知賀先輩の作品なのに? 亜港先生がそんなことしますか?」


 当校では美術部の顧問は亜港先生が持ってくれている。おそらく初任なのに専門外の部活を委ねられるのは可哀想に思ったのだが、これがなかなかどうして絵が上手く理解もある。写実が必要な専門だったらしく、大学時代に鍛えられたのだと。


「い、いやその、許可はしちゃった……のだが。それ面白いっすねとか言っちゃったのだが……」

「うーん擁護できない」

「なら仕方ないね。なんでそれで雅楽さんが被害者ぶってんの? さっさとやれよ芋ブタ」

「ひっ、ひいっ、炉端氏の罵倒が効くでごさるっ!」


 ——この二人の関係、なんでか少し不健全なんだよな。


 透き通るバケツだけ届けて、テーブルに着き落書きタイムとしゃれこんだ。カバンからルーズリーフを抜き出す。


「そういえば倫斗、最近あの落書き帳を開いてるところを見ないね。春に使ってたやつ」

「ああ、あれは無くしちゃってさ」


 春夏李は首を傾げる。


「無くしちゃった? 本当に?」

「うん? うん。ほんとに」


 ——どういう質問だ? 俺が隠し持っていることを疑ってる? なんで?


「そう……残念だね」

「そうそう、残念なんだよな」

「まあいっか! それはそれで!」

「何が!? え、何が!? よくないが!?」





 土曜日の午後七時。美術部を尋ねると阿知賀先輩と亜港先生が必死にパネルに取り組んでいた。二人同時に顔を上げる。


「望月氏!?」

「あれ? 望月くん、どうしたの?」

「自分はちょっと様子を見に来ただけです。先輩はともかく亜港先生はどうして?」


 左手にパレット、右手に筆を持つ白衣の女性。目鼻のパーツが小さめ、素朴な可愛いさを讃える彼女こそが我らが顧問、亜港先生である。右頬に絵の具が着いてしまっているのはわざとなのだろうか? そうでなければあざとすぎるが。亜港先生のおっちょこちょいに関しては生徒間でかなりの激論が交わされたのだが、真正の天然だろうという解釈に落ち着いた。真実は神のみぞ知る。


「わ、私のせいで阿知賀さんのパネルが無くなっちゃったんだから、休日出勤も致し方ないよ……!」

「お、おおおそんなことはありませぬぞ亜港氏よ。す、全ては拙者があんまり考えずに安請け合いしたことにあるのでございまする……!」

「いやいや私の考えが至らなかったから……私の怠慢で……!」

「いやいやいやいや——」


 助力が必要かと思って来たのだが、流石にあのサイズのパネルに三人以上で同時に書き込むのはかえって非効率だ。ありがとう亜港先生。でもこれお金はちゃんと貰ってるんだろうか。抜けてるところがあるから不安だ。やりがい搾取でないことを祈ろう。


「飲み物でも買ってきますよ、二人とも炭酸駄目でしたよね。お茶でいいですか?」

「えええ!? 先生が生徒に奢らせるわけにはいかないよ!」

「そりゃあ先生からはお金貰いますよ?」

「あっ、それもそっか。そうだったそうだった」


 てへへと筆の柄で頭を掻く。犯罪的なあざとさである。これで女子に嫌われていない現状は奇跡と評して過言ではないだろう(女子からも可愛い扱いを受けている。あるいは小動物枠なのかもしれない)。


「せ、拙者はマックスコーヒーで頼もう」

「無い。無いですから大阪にマックスコーヒー」


 出る前にふと机の上の紙束が目に留まった。令月祭における美術部展示のポスターのようだ。男性のシルエット二つが見つめ合うデザイン。十枚足らず。


「ポスターですか。この枚数で足りるんですか?」

「ああ、うん。各クラスに配るだけだからね。この学校の配慮って徹底してるから、廊下に張り出したりするのもダメって話なんだ。だからそれで足りるんだよ」

「……なるほど」


 となると逆に十枚ですら余裕があるだろう。一枚だけ抜いておいた。





 飲み物を買ってきたところ——


「ただいま戻りま——」

「望月氏!! そっちに行った!!」


 阿知賀先輩の声にギョッとすれば黒い虫が素早く俺の足元に走ってきた。


「うおっ!!」


 飛び退けばゴキブリは椅子の縁でピタッと動きを止める。


「お、おおお……」


 ついつい飛び退いてしまったが、たかがゴキブリである。ちょっとビビりすぎた。さりとてゴキブリだ。しょうがない。ちなみに夜間定時制の生徒であってもゴキブリに慣れる者は意外と少ない。遺伝子に刻まれた恐怖なのである。


「あ、えっと……先輩。ティッシュとかありますか? 取りますよ」

「ティッシュなんて要る?」


 準備室から出てきた亜港先生は俺の足元でしゃがむと、おもむろに手を伸ばし、走り込んできたゴキブリを左手でキャッチした。初め、ゴキブリは指の隙間から抜け出して亜港先生の腕に這い上がったのだが、先生は両手に交互に這わせることで腕を上ることを阻止し、遂にギュッと握って捕獲した。俺と先輩が圧倒されているうちに——あるいはドン引きしているうちに——亜港先生は窓を開けて放り投げてしまった。


「……え? 亜港先生いまゴキブリを外に放りました?」


 水道で手を洗いながら、先生は首を傾げる。


「え? うん。それが?」

「普通は殺しませんか?」

「一寸の虫にも五分の魂なんだよ? 潰すと菌が飛び散っちゃうし、こっちの方が清潔だよ」


 先輩は未だに絶句して固まっている。


「そ、それはそうなのかもしれませんが。生物の先生ってみんなそうなんですか?」


 ここまで聞いてやっと、亜港先生は俺たちの驚きに理解が及んだようだった。あっと何かに気付く。白衣でパッパッと水気を払いつつ、適当な椅子を足で引き出した。


「ああ、えっとね、そんなことはないよ。ゼミの仲間たちはみんな、カエルの解剖ができてもゴキブリにだけは触りたがらかった」

「じゃあ亜港先生が特別なんですね」


 先生はにこりと微笑む。それはまるで質問に来た生徒を迎えるように。


「ううん。あなたたちこそ特別なの」


 対面の席を座るよう勧められた。


「せっかくだから、少し話をしようか——ゴキブリと哲学の話を」

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