第25話 月とゴキブリ

 備え付けの机を背に通路を挟んで向かい合う形。亜港先生が口を開く。


「私の出身が北海道って話、覚えてるかな」

「はい。亜港の苗字は北海道に由来が——あっ」


 その話は小耳に挟んだことがあった。


「北海道はゴキブリの生息分布から外れていてね。だからゴキブリに関する情報が入ってこない」

「らしいですね。ゴキブリ駆除剤のCMも流れないとか」

「だから私には、ゴキブリに対する恐怖心が育っていないんだ。蝶や蛾、カブトムシやクワガタ、ムカデやハエ、そういった昆虫の一種として捉えている。これらの生物には触れるよね?」

「ムカデに直接触ることは無いと思いますが」


 先生は小さく拍手する。


「ありがとうちゃんとそこに引っかかってくれて。それはなんで?」

「毒があるからです」

「ではゴキブリには毒がある?」

「なるほど、ありません」

「確かにゴキブリは病原菌を媒介するんだけど、手を洗えば済む程度。噛んだり刺したりする虫に比べればずっと無害だ。ではあなたたちはどうしてこれほどまでにゴキブリを恐れているんだろう」

「刷り込みだと」

「後天的に植え付けられたものなんだよね。君たちがゴキブリを過剰に『怖い』だとか『汚い』だとか思うその思考回路は」


 いつかの誰かの発言が思い返される。


『ん? わ、ゴキブリじゃないか。うわーやだね。汚い』


 あれは——。


「もちろん生まれつきの本能で拒否するものもある。正しい意味で、生理的に拒絶してしまうものは確かに存在する。人間は確かに『白紙』ではない。でも生存に関係しないところではほとんどないはずなんだ。なんていったって私たちは子孫へ情報を伝達することに非常に優れた種族なんだから、本能に頼る必要が無いんだよ。奇抜な柄の服をダサいと思ったり、日本語ラップをクールだと思ったり、そういう価値観は生きている中で摂取する情報の中で形成されていくものなんだ」


「では例えば、『月が綺麗だ』と思うのも後天的なものですか?」


「そうそう! 情緒的なものが代表例。平安時代の月は確かに神秘的で美しかっただろうね、夜空に輝くただ一つの光源だったんだから。でも現代では神秘は解明されている。もっと綺麗なものもたくさんある。街灯はそれぞれ月よりも大きく明るい光源だ。夜道を行く車だって二色の光を幻想的に残しているよね。赤HEPの観覧車に乗ってみたことがある? 圧倒されるよ、眼下の夜景に。絢爛たる人間の営みに。私たちは既に夜空をも霞ませる美しい光景を手に入れているんだ」


 ついつい身を乗り出してしまうくらい、俺は先生の話に食いついていた。


「だっていうのに、俺たちは未だに星や月をありがたがっている」


「それもまた、ゴキブリを『汚い』と思うのと同じ理屈なんだ。君たちは星を綺麗に思うよう刷り込まれている。例えば星座の物語を知ったり、七夕などといった行事を経てね。月もまた同じ。学園祭が令月祭だなんて名前でいられると、そりゃあ月はめでたいものなんだなって思うよね」


「月は本来『綺麗』ではないということですか?」


「人によっては月を『汚い』と思うかもしれないし、ゴキブリを『綺麗』だと思うかもしれない。情緒は私たち人類が獲得した機能のうち最も尊いものの一つ。それこそが私たちに価値観の違いをもたらして、集団ではなく個として生きることを選択させた。肝要なのはそれぞれ違うというところ。君たち私たち、一人ひとりの価値観の違いこそが、人間の可能性なんだ。一人ひとり特別なんだよ。優劣なんてありはしない。『本来』も『本質』もない。どれだけの価値観に触れてきたのか、どれだけの体験を、記憶をすり合わせ、取捨選択してきたのか。。そうしてそれぞれが創り上げた価値観のモニュメント、そのありようを人はこう呼ぶんだ——哲学、と」


 ——哲学。


「君には君だけの素敵な哲学があるかな?」





 俺は次に、こちらもなぜか土曜日に出勤していた椎名先生の元を尋ねた。


「詳しくは椎名先生から聞いてねと言われたんですが」

「おいおい嘘だろ亜港先生、どんなキラーパスだよ」


 職員室には他に誰もおらず、電灯も控えめで涼し気にがらんとしていた。まだ公務員に夢を持てる状況と言えるだろう。ギリギリでホワイト。部活を持つと十時上がりになる点は目を瞑る。いや? よくよく考えてみると、夜間定時制の先生って一般社会を生きる人間と活動時間が違いすぎて、家族とか恋人とか作れないのではないだろうか。馬鹿と問題児と不登校の相手ばかりしなくちゃいけないのに恋人もできづらいとか、あまりにもあんまりである。やっぱりギリギリでブラックかもしれない。


「倫理は苦手なんだが、仕方ない」


 椎名先生に勧められて隣の先生の椅子に座った。ただでさえちょっといい椅子にクッションまで敷かれている。机をよく見ればテプラで榎本先生の名前がある。流石だ。


「えっと、どこを掘り下げたいんだ? 『白紙』について話しておく必要があるか?」

「それは文脈的に重要じゃなさそうなので、後半の用語をお願いします」


「じゃあ『本質』をフックにするか。——本質は哲学とニアリーイコールにすらできる、最も重要な概念の一つだ。古代の天才は物事をメタに見ることが思考という営みと相性がいいことに気付いた。メタフィジカ、形而上学の発生だ。アリストテレスとプラトンで本質に対するスタンスは違ったが、いずれにも共通していたのは『本質は不変』という点。形而上学そのものに絶対普遍の原理を探求するって性質があったからな」


「亜港先生が言っていたのはそれとは違う気がしますね。現代では形而上学が主流ではないんでしょうか」


「形而上学の性質が変化したって言い方の方が正しい。さて、この『本質が絶対普遍である』という考え方は二千年くらい哲学界を支配することになる。絶対を尊ぶキリスト教の追い風もあってな。それを打ち破ったのがカントだ。カントは『我々には現象しか認識できない』と主張した。これは本質の観測に限界があることを意味しており、同時に本質の絶対性を揺るがすものだった。科学の進展も後押しする。哲学的関心は抽象概念から具体的な現象に移っていった」


「んん……? カントのところが少し」

「オレたちはリンゴがあればリンゴだと認識するだろう。その『認識』自体が感覚や思考のフィルターを通してるってことで、オレたちは根源的に『本質』には辿り着けないってことだ」

「それならもうそれこそが『本質』なんじゃないですか? 俺たちに見えているものそれ自体を『本質』と定義するほかないのでは?」

「ああ、それは哲学的思考ではないんだよな。だが今回はそれでいい。じゃあもうオチまで飛ばすか。ということで『本質』はその性質を変えた。つまり——相対的なものになったんだ。揺るぎない基準ではなくなった」

「あくまで認識に基づくということですね」


「言語哲学が発展したり、実存は本質に先立つと言われたりして……現代哲学は社会構成主義というものに帰結した。物事の本質は社会的な文脈や関係性によって構成されるってやつだ。『本質』は流動的なものになった。認識、言語、社会的文脈に依存する動的なアプローチへと変貌した。個人個人で見出す本質が違うんだ。けれどそれぞれは確かに本質を見出しているし、それらは全てその場では確かに正しい本質なんだよ。『哲学』を『本質』へアプローチする手段と捉えるならば——」


「——現代においては『個人個人が哲学を持っている』」


「これには時代柄もある。人間が個人で生きることが可能になったし、絶えず他文化が流入する多元的な社会となった。静的な世界では哲学も静的だったが、動的な世界では哲学も動的になった」


 分からないところもあったが、それでも十分に理解は深まった。「彼女」も水壺も、こういった思考を経て、自己の哲学、他者の哲学という言い回しをしていたのだろうか。


「えっとつまり、亜港先生の返答を言い換えると——月の美醜に本来も何もない。月はただそこにあって、それを見上げる者が意味を見出す、ということでしょうか」

「上出来だ」

「こう言ってしまうと簡単な事ですね」

「亜港先生は良くも悪くも生徒を信頼しすぎだな」


 教員目線だとそういう感想になるのかもしれないが、こちらとしては力不足で亜港先生に申し訳ない気分だ。椎名先生へ誘導してくれたのも手厚い。


「お仕事中に、ありがとうございました」

「せっかくだ。他に質問あるか? ほら教えてる歴史総合で」

「いえあんまり」

「そうか……」


 椎名先生は肩を落として机の上の教科書をつついた。机上には小さな娘さんを抱く椎名先生の写真がある。


 ——結婚してたのか。


 指輪も外しているし匂わせもしないので気付きようがなかった。なんだ、ならやっぱりギリギリホワイトで。


「そういえば、全く関係ない話ではあるんですが、椎名先生に一つお願いがあるんですよ」

「ん?」


 俺は先生に、文化祭の二日目に決行したいと思っていた計画を話した。


「あーっ……なるほど。いや分かるぞお前の意図は」

「はい。ですがこれを見逃すとなると、おそらく椎名先生は昼の先生から怒られてしまいますよね」

「それを見逃すならな」

「なので俺は先生に貸しを作ることで、その不利益を被ってもらおうと思います」


 俺のセリフに椎名先生はふうんと顎を上げた。


「他でもない望月の頼みだ、何の対価がなくとも聞いてやるつもりではいたが——せっかく策を考えてきたってんなら聞いてみよう。なんだ?」


 俺は頷いて答えた。それはまだ果たせていない俺と先生の約束。


「水壺颯兎と決着を着けてきます」

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