第22話 相方の提案
M-1の一回戦は一日で百組捌くが、そのうち八割くらいは吉本興行に所属する職業芸人である。あとがアマチュア。一回戦は大阪だけで十五回以上行われるので、単純計算で最低でも千二百組の吉本芸人がいることになる。多すぎる、普段どこで何をしているというんだ。
心斎橋パルコ最上階の会場は二七七席あるらしいが、五十組が過ぎて十六時を過ぎる頃にはほとんど全てが埋まっていた。戦々恐々として席を立つ。園田と水壺が頑張れと送り出してくれたが、俺はもう心臓が張り裂けんばかりに緊張していた。会場前のスペースで手すりに寄りかかってへなへなとしおれる。
「なんで一回戦如きにこんなに人が来てるんだよ……目玉らしき芸人もいないのに。みんな暇なのか!? お笑い好きすぎるだろ……!」
「おだちゃん……なんともまあみっともない姿になってしまって……」
案内に従って舞台袖に控える。同じブロックの人に緊張しませんかと声をかけると、もう今年の一回戦だけで十回出てるからそんな緊張はないと返された。そんなのアリなのか。
「お兄さん来てたか?」
「分かんない。さっきは見当たらなかったから、来てないかもしんない」
「そうか……でもまあ、が、がが……頑張るか、頑張ろう」
「締まらんなあ」
もう次だ。最初のセリフは俺側、飛ばないようにしなければ。
「ほら泣いても笑っても次だよ。よろしくおだちゃん。やちのために頑張って?」
——小泉のため、か。
「……そうだな。頑張ろうか。今の相方は小泉だからな」
小泉はクスクスと笑う。
「それでやる気出るんだ」
小泉は妙に心臓が強いようで、ずっとこんな調子だった。その余裕に、精神的に、かなり助けられた。見つめればなんだよと肘で突かれる。苦笑しながら、前の組がはける背中を追って舞台の上に出ていった。
「「はいどーもー!!」」
同じブロックだった人たちに誘われて一緒に写真を撮った。二回戦で会おうと別れてから、エレベーターホールで園田水壺と合流する。
「お疲れ二人とも!! マジめっちゃ面白かった!! すげーな!!」
「(首肯)。会場も盛り上がってた」
「ええ〜? そんなに言われると照れるな~」
うへへと頭を掻く俺に対して、小泉は首を伸ばして辺りをきょろきょろとしている。
「およ、こいちゃんどうかした?」
「小泉——」
慰めるつもりで名前を呼んだのだが、ほとんど同時に小泉の目は一点に留まった。
「——おにい」
それはブロック終わりで出てくる客の中に。小泉の視線を追えば、足を止めてこちらを見つめる青年がいた。季節外れのパーカーに無精ひげと眼鏡。
「——」
わずかな間の沈黙。破ったのは小泉だった。びしっと指差して声を張る。
「——どうだ!! やちの……勝ちだ!!」
その張り上げる声はまるで、込み上げたものを誤魔化すよう。言い切ってからも、胸を上下させ、僅かに口元を震わせている。
小泉には舞台の上から見えていたのだろう。ゆえの「勝利宣言」。
お兄さんは多少ポカンとしてから、確かに——微笑んだ。
「うん。面白かったよ。ありがとうね、やち」
先に帰るねと控えめに手を振り、エレベーターに乗って行く。
水壺が小泉の事情を掻い摘んで園田に説明していた。園田はびっくらこいている。
「おだちゃん」
「ん?」
小泉はお兄さんを、お兄さんが笑っていたところを、ずっと見つめていた。
「やち、ちゃんと授業出るよ」
「そうか、小泉が真面目にやるなら余裕で三年卒業だろうな」
「漫才も続ける。おにいが笑ってくれるから」
「そうか、頑張れ。応援してるぞ」
俺はもうかなり精神が削られてしまったのでここらで降りさせてもらおう。元より気が進まなくてお蔵入りにした計画だったのだ。予想通り緊張と恥ずかしさが耐えられるものでは無かった。元より向いていなかったようだ。これはもうしょうがない——。
胸ぐらを掴まれる。
「今さら逃げられるとでも?」
ビビって見れば小泉は涙目に青筋を浮かべていた。
「で、ですよね……」
「そんで、一緒に卒業して、一緒の大学に行こう」
「え、なんで? こればっかりは本気で何の話?」
「顔を合わせる機会は多いに越したことないから」
「ああ、遂に意趣返し返しをされたか。やりすぎたと思ってたんだよな……」
「二人で世界を取るよ」
苦笑する。
「大きく出たな」
小泉はくしゃりと笑った。
「半分はあげるから」
結果はしっかり一回戦敗退で何の賞に掠りもしなかったが、言うまでもなく、それ以上のものを得られる結果となった。
榎本先生の件は学校を通して一旦の落着を迎えたらしい。
小泉は両親ともお兄さんとも、自分の所業ともサクサク決着をつけたわけだ。元より半年もかけた派手な自滅を企てていた人間である。行動力と決断力に優れ、賢く強かなのだ。きっかけと希望さえあれば正しく生きるのは難しくなかったのだろう。
こんな事件は「彼女」に報告しなければという気持ちが一瞬浮かんで、そしてその気持ちは行き場なく宙に浮いた。いかんせん、ノートが手元にないのだから書きようがない。
落書き帳が見当たらなくなったのはお盆の空けた頃、夏休みが終わる少し前だ。それまで俺は俺の身の回りに起こったイベントを下る下らない問わずほとんど全てと言っていいくらいに彼女に報告していた。それに対するコメントが楽しみだった。これほどに大きなことがあったのに話せないというのは歯がゆい気分になる。
だが新たにノートを送り込むというのも変な話な気がする。向こうが興味を失っただけの可能性はあるのだ。重い話をしていたから疲れさせた、みたいな状況は十分にあり得る。あるいはこちらのことばかり書きすぎて飽きられたのかもしれない。それでもなお送ろうとするのはしつこいし向こうに悪いだろう。
そもそも昼と夜は本来交わるものではないのだから。
スケジュール帳を開いて挟まれたしおりを見る。太陽に照らされたメリハリのある真夏の色彩。
「まあ、きっと元気にしてるよな」
そんな言い訳を口にしてみたが、心に穴が開いた感覚はずっと残り続け——。
「いや……たまには頑張ってみるか! 俺と『彼女』の仲だしな!」
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