第20話 vs 沈みゆく道化師

 ワインレッドを基調とした落ち着いた雰囲気のレストラン。重厚なカーテンで仕切られた半個室。ビンテージ風のソファは三人座れる大きさ。テーブルにはメインの牛肉のソテーが届いている。追加で頼んだバケットのパンは手つかず。


 そんなテーブルの向かいに座り、クッションの一つを前に抱いて警戒の姿勢を見せているのが小泉八千恵だ。黒髪に赤のインナーカラー、くしゃっとまとめてパーティー風。リボンスカーフのついたベージュのブラウス。水色のロングスカート。ピアスのレパートリーが多いことに最近気づいた。今日は青い花のもの。


「ということで小泉のことを教えてもらおうか」

「な……なんでだよう!」

「どんな些細な事でもいい。協力してくれ」

「——あっ、ああ。あーね。理解したよ。おだちゃんはエッチなシーンまでの過程を大事にするタイプなんだね? セックスする人物の背景をよく知る必要があると思うんだね?」

「何の話?」

「やちはAVって全く見たことないけど、男の子は冒頭を飛ばす派と飛ばさない派に分かれるっていうからさ」

「らしいな。俺もあんまり見ないけど」

「やろうと思えばいつでもやれるから!?」

「三次元で抜く習慣が無くて」

「ぬ……『抜く』!!?」

「今さらその程度の言葉で赤面するのか!? 『セックス』は平然と口にできるのに!?」

「でも理解できないな。やち、過程ばっかり丁寧で濡れ場が一ページ未満で終わる漫画とか大嫌いなんだ」

「小泉、お前BL向いてないよ」

「なんでおだちゃん如きがBLコミックの作法を語るんだよ」

「美術部の先輩の影響でな」

「最悪な先輩だ」

「おかげさまで三コマ未満の濡れ場でも満足できるようになった」

「脳みそがメスすぎる!!」





『誰かと仲良くなりたいの? ならそうだなー、やっぱり自分から情報を公開することが大事かな?』





 欄外のやり取りだったが、確か「彼女」にこんなことを言われたこともあった。


 ——ノートはしばらく返ってきてないけど……元気にしてるかな。


 ソテーの最後の一片を口に運んだ。すぐにデザートとお茶が届く。


「そうだな、俺から話さないと話しづらいか。ということで、俺の家族の話を聞いてもらおう。ちなみにできれば他言無用で」

「おっとっと? では聞かない権利を——」

「俺の父親は衣料品や雑貨を扱う流通系の自営業をやってたんだが、これが潰れたのには二つの理由がある」


 小泉は両耳を塞ぐポーズのまま眉をひそめた。


「——コロナ禍、だね」

「それが大きな理由の一つだが、もう一つに、母親がよくわからん新興宗教にハマッたってのがある。ありがちなインチキ宗教だ。厄介なことにマルチなところもあって、母さんは会社の従業員にかなりの迷惑をかけた。古株の社員さんたちが辞めたことで、仕事はまるっきり立ち行かなくなった——」

「ま、待って。待ちたまえおだちゃんよ」


 小泉は焦り、困惑した様子で俺を止める。


「ん? どうかしたか?」

「い、いや、いいんだけどさ。いいんだよ? 別に、話したいなら話してもらって。でもその……よりにもよってやちに? その人選は間違ってない?」


 小泉の説得の姿勢は真剣だ。もちろんこちらも元より真剣である。


「小泉の何がダメなんだ?」

「ええ!? やちだよ!? ももちゃんに前科を付けた女だよ? まあまあの悪人だよ!?」

「『前科』は刑事裁判で付くものだ。春夏李はまだ十七歳。少年法によって家裁で処理される以上、付くのは『前歴』。不起訴と同じ扱いになる。よっぽどの凶悪犯ならともかく今回は初犯だ」

「それでもさ。そんな人間に自分の弱みを言っちゃうだなんて、随分と頭にお花が——」

「お前が本当に悪辣非道な人間なら素直に全部聞いて俺の弱みとして利用すればいい。俺にはそれ以上に大事なことがある」

「そこまでしてやちのコトをしゃぶりつくしたいってこと!!?」

「何の話?」

「じゃあこれ逆に何の話なんだよっ!!」

「で、父さんは過労が祟って、不注意から運転中に対向車と衝突した。とはいえ幸いにも——フッ、幸いにも——相手の方が過失が重い事故でな。慰謝料は貰う側だし保険も下りた」

「……それで、お父様は?」


 小泉は人の相談を受ける時の顔をしている。相手を憂い、共感し、理解しようとするときのそれだ。


「父さんは死んだ。俺はそれから何か月か、残った職員さんたちと共に会社を畳む手続きに追われていた」

「それで一年遅れて定時制に……か」

「遅れた理由は他にもあるが……まあそれはいいか。俺の来歴はこんな感じだな」

「なんというか……お気の毒に」

「俺がここまで話したのは春夏李を除けば小泉だけだ」


 そして意外と抵抗感も無い。今回は目的があったわけだが、そうでなかったとしても俺はいつか小泉には話していたかもしれない。


「信頼の証と受け取ってほしい。それくらい、俺は小泉のことが知りたいんだ」

「そう。はあ」


 小泉は頬を染めながらぐるりと目を回した。


「じゃあ免じて」

「ありがとう」

「やちんちは、パパが警察官で、ママは行政書士。年の離れたお兄ちゃんが一人いるよ」

「お兄さんがいるとは聞いてたな」

「物心ついたときから、おにいの方がパパからもママからも愛されてる感じがした。ちょっと嫉妬することもあったけど、でもおにいがやちを構ってくれてたから、あんまり気にはならなかった。賢いし優しいし面白いしで、おにいはやちの憧れだった」

「いいお兄さんだ」


 「そう」と頷く小泉の表情が妙に記憶に残った。

 らしくない、悲しい微笑みだったから。


「教育に関してはかなりぼちぼちの数字を求められる家庭だったんだけど、おにいは期待に応え続けた。なんと一年目には早稲田に受かってたんだよ。東大目指そうってなって浪人したけど」


「東大!? 東大ってファンタジーじゃないのか!?」


「じゃないよっ! では一浪して受かったのかというと、これがどうしてか一年目に受かっていた学校にも受からなかった。そうして去年——三浪目からちょっとずつ何かがおかしくなっていった。ボタンを掛け違えたみたいな些細な変化から……気付けば簡単な日常生活を送るのにも苦労するようになってきた。そうだな例えば——飲み物を飲むためには、冷蔵庫を開けて飲み物を取ってコップを取りコップに注ぎ適切な力で握って口に運び飲み込むっていう動作を経るわけだけど、こういう細かいステップの一部を忘れて途中で固まる、そんなことが起こり始めた。それで突然泣き始めて勢いで吐いちゃうとか。お酒を飲むようになってからは手のつけようがなくなった。もうぐちゃぐちゃ」


 ぐちゃぐちゃ。その言葉はこのときまで俺の中に存在しない言葉だったが、いくつかの記憶とかなり自然に結びついた。それは母親の姿であり、父親の姿であり、あるいは荒れているときの——春夏李であり。


「うつ病……統合失調症。いや、若年性アルツハイマー……?」

「診断は適応障害だからうつ病の方が近いね。いずれにせよ脳みそはバグっちゃってる」


 小泉は謡うように左右に揺れている。


「さて、おにいに対してのびのびと育てられていたやちだったんだけど、おにいが不穏になるにつれ、パパとママのやちを見る目が変わってきた」

「お兄さんのように勉強を強いられるようになった?」

「うん。でもやちはさ、なんかヤだった」

「そりゃあ、今までやる必要がなかったことを強いられたらな」


 人差し指を立ててニヤリと笑う。


「少し違う。勉強は嫌いじゃなかった」


 今の流れで勉強以外を嫌いになるとしたら——。


「——両親しかない」

「そう! 分かってるねおだちゃん。これまでやちが塾をサボろうが万引きしようが財布からお金を抜こうが包丁を投げつけようが徹底してやちのことを見なかった人たちが、おにいがダメになった途端にやちを見るようになったことが……その態度が、気に入らなかったんだよ」


 意図しない形で予想は合致していた。小泉には両親からの愛が欠乏していた。だが小泉に落ちた影はもはや愛情の渇望という単純な形をしていなかった。失望と喪失で願いは攻撃性に反転している——。


「もうぜーんぶ馬鹿らしくなった! しょうもないなって。下らないなって。親とかいう大人の、底の浅さを知っちゃったから! そこにやちの求めてたものは無かったんだ。嫉妬する価値も無いつまんない人間だったんだ。先に期待を裏切ったのはあの人たちの方なんだ!」


 これが彼女の行動原理。


「それからやちの人生はこの人たちへの復讐に使おうと決めた。やちはこれからもずっとあの人たちに迷惑をかけて生きていくと決心した。あの人たちの期待を裏切って、キャリアに傷をつけるんだ。やちたちをただ自分の人生の延長としか見てなかった親未満の生ゴミに身の程を分からせてやるんだよ! は糸に繋がれた操り人形でも理想を写す鏡でもない! あんな奴らに削られてなんてやるもんか!」


 哲学はあった。自分の身すら顧みない「悪意の私欲」。


「ふっふっふ、こんなに愉快なゲームは他にないよ。かにちゃんが全部暴露してくれる。やちの数々の悪事がバレたらどうなると思う? あの人たちの職場にバレたらどうなる? あはは、楽しみだなあ! これが最初なんだ! やちはやちのやってきた悪事にすべて証拠を残してきた。犯罪まがいのこともやったし、恨みもきちんと買ってきた。誰もやちを庇いやしない。順当に妥当な最悪の結末を迎えられる。やちすらも期待外れだと知ってしまった時のパパとママの顔を想像してみて? 楽しみでもう仕方ないの!」


 彼女は救われようとしていない。だから彼女もまた水壺に感謝するのだろう。


「なんでそれを……俺にも嫌われなければならないはずのその計画を、俺に話したんだ?」

「今さらおだちゃん一人が頑張ったところで、やちを救うことはできないし」


 水壺が小泉の首に鎌をかけたのだと思っていた。しかし逆だったのだ。崖際に追い詰められていったのは小泉。下手人に水壺を選んだのは彼女自身。となると状況は変わってくる。小泉が意識的に水壺を逆撫でるように動いているならば、無軌道にかき回してただ恨みを買うことが目的ならば——それで一貫しているならば。哲学の有無はもはや問題ではない。水壺はいずれにせよ沙汰を下すだろう。


 俺が小泉を折らない限り。


「示し合わせたわけじゃないだろうに、息が合うんだな、お前ら」


 あきれる俺を見て小泉はくすくすと笑う。


「やちが利用してやってるだけ」

「最悪な組み合わせだ……が」





『私は君を信じているよ』





 ふと、背中を押される気がした。

 レストランの閉まる十一時。伝票をもって立ち上がる。


「話し足りないよな。まだまだ付き合ってもらうぞ。——俺に救われる準備ができたか? お前のことを引き上げてやる」

「あっはは! おだちゃん如きが大きな口を叩くね! ——絶対に救われてなんてやんない! 意地でも折れてなんてやんないから!」


 会計を済ませて宵のオフィス街に繰り出した。


「で、でもちょっと緊張してきたな、初めてだし。——いや。やちは負けないよ。おだちゃんがいくら女を転がすのが上手かったとしても、やちは屈したりなんてしない! 負けないから!」

「さっきから何の話をしてんの?」

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