四章 落月屋梁の想い
第19話 三つ目の終幕まで、あと
警察からの取り調べを終えて解放されれば、もう午後九時になろうかという時間だった。ライトアップされた通天閣を南に見ながら、母親からのメッセージの束を一斉にスワイプして見なかったことにし、全く別の人間に電話をかける。
『はいはい、もしもーし』
「小泉、いま時間あるか。それか直接会えるか」
『あは。こっちこそ、夕ごはんにでも誘おうかと思ってたんだ』
小泉の後ろからは車の往来が聞こえる。
「外か?」
『中之島の方。三十分はかからないよね? カフェにでも入ってるよ』
「すぐ行く」
電話を切って目の前の恵美須町駅に降りる——前に。
「あー。はあ。気は進まないんだけどな……」
コンビニで一枚の資料を印刷しておいた。
小泉に案内されたのはお高そうなレストランだった。ワインレッドで固められた大人な雰囲気。向かい合わせのソファーは三人掛け。スタッフからコースの説明を受ける。厚いカーテンが閉められ半個室となった。
「かなり背伸びしてるところに来た感じがするな」
小泉は普段からお姉さん風のファッションをしているし今日もそうなのでまだ馴染んでいるが、俺はといえば千五百円のシャツと何年もののジーパンである。小泉は俺の視線から言わんとするところを察する。
「あはは! この程度のお店にドレスコードなんてないよ!」
飲み物と前菜が届いた。前菜の内訳を説明されるのだが全然頭に入らない。
「小泉、これなんだっけ。小エビの……ゼリー?」
「エビをゼリーに!?」
「うーん、ちょっと苦いんだな」
「苦いのはホタルイカ! 小エビですらない!」
「ゼリーですらないかも」
「だろうね……!!」
「いや、多分ゼリーな気もする。部分的にそうな気がする」
「バカ舌のアキネイター!!」
スープ、魚料理と来て牛肉のメインまで。
「メインの料理も来たしそろそろメインの話もする?」
「本気か? メインの話はデザートかその後にするものだろ」
「なんでおだちゃん如きがコース料理中の話題展開を語るんだよ」
「ちょっと想像力を働かせれば分かるだろ……」
「例えば愛の告白だとかなら、その後の雰囲気が最悪になる可能性も否めないけどさ」
「俺が今からお前に尋ねる内容もそれに匹敵する気がするけどな」
「あはは! まったくもってその通りだね!」
小泉はソテーをひと切れマスタードに着けて口に入れた。わっと目を輝かせる。時間をかけて飲み込んでから、俺に尋ねるように促した。
「さ、どうぞ?」
「先に食べても良いぞ?」
「いやいや、こっちも同じくらい楽しみだから」
「そうか。でもどこから聞いたものかな……」
俺は膝に肘をつき、さっきまで俺を聴取していた警察官と同じポーズをとった。
「質問じゃあないが、驚いたよ。まさかお前が、特定の個人を捕まえるだなんてことが可能な立場にあっただなんてな」
「やちのパパはこの辺りの警察官だからね。しかも結構偉いらしい」
「何のために?」
「おだちゃんのためだよ」
「それで説明してるつもりなのかよ」
「嘘はついてないよ?」
「じゃあ次だ。どこで、それを知った?」
「秘密」
水壺が携帯を仕掛けたのは肝だめしの前。だが水壺が肝だめし中に確認したとき携帯は姿を消していた。俺と乃木が気付かなかった以上、水壺の携帯を持ち去り得た人間は園田と小泉しかいない。
「水壺の録音を手に入れたとて、あそこには大した情報は無かったはずだ」
「そうかな? 推理には十分だったよ。『こんな人間』という発言から見る自己肯定感の低さ。相手の身体に男性であることを求めた理由。コスメと服から見る異様な羽振りの良さ。コンセプトカフェ、ガールズバーを転々とする中で既に顧客の目途はついている。いくつかの情報と捜査を経てももちゃんをめぐる五年前のニュース——『実父からの性的暴行』——に辿り着けば想像には難くない。ももちゃんがセックス依存症であり、かつ、それをパパ活——援助交際でお金に変換していることがね」
「……」
「ああごめん! 食事の場には相応しくない言葉遣いをしちゃった。やっちった。えーっと、そう、スキンシップ中毒ね。まあともかく、源氏名からアカウント見つけたら『この子が教室でパパ活を匂わせててね~』だとかチクれば現行犯逮捕はすぐそこ! こんな流れだね。ああ、やちったら愛されっちってるから! パパに言うこと聞いてもらえちゃうんだ! やっちっち〜!」
「随分と手が込んでるな。そこまでして春夏李の秘密を暴きたかったのか。おかげさまで停学だし、なぜかこの事実が昨日の今日で学校に広まっているせいで、春夏李は自ら学校を辞めるかもしれない」
俺が歯を軋ませるのに、小泉は本性の笑みを押さえ切れていない。
「なあ小泉」
「なあに?」
「俺はお前が許せないよ」
「ええ!? なんで!?」
小泉は大袈裟に驚いて見せる。
「おだちゃんはやちに感謝してしかるべきだよ! だって、付き合ってる相手がパパ活してることを暴いてあげたんだよ!? 知らないおっさんに身体を許してる女、どんな病気を貰って来てるかもしれない女だ! おだちゃんは今までそんな女と寝てたって言うんだよ! いや気持ちは分かるよ。吐きたくて仕方ないよね? 今まで飲んだあの女の体液を吐き出したくなるよね? やちを恨むのも分かる。でも今で良かったと思ってほしいんだ。だってやちがこの真実を公にしなければ、おだちゃんはこれからもずっと騙されたままでいたんだから!」
「いやそれは知ってたけどさ」
「……ん?」
「ん?」
小泉はしばらく固まったのち、きょとんと首を傾げた。こちらも真似て首を傾げる。クエスチョンマークが二つ。
「え、知らないと思ってたのか? 俺が春夏李の売春を」
「逆に、知ってて付き合ってたの? そこまで女に飢えてたの?」
「そこまで女に飢えてたかは分からないけど、それはそれとして放っとけないだろ」
「んんん? でもももちゃんとエッチしてるんだよね?」
「言い辛いけど、そうだな。多分アイツは小泉の言う通りの依存性だろうし」
「……??」
しばし困惑の時間が流れる。
——なんだこの空気。
小泉は溜息を吐き捨てた。
「なーんだ、つまんないの」
「お前の今日の目的はこれだったのか? 改めて俺にそれを知らしめたかっただけ?」
「当てが外れたけどねー」
「じゃあここからは俺の目的に付き合ってもらうのが筋だな」
小泉は一瞬だけ眉間にしわを寄せた。しかしすぐにおどけた顔になってしまう。
「うーん、おだちゃんからやちに要件なんてあったかなー?」
俺は今日、小泉のこの黒い仮面を剥がさなければならない。
**
三時間と少し前。
学校で椎名先生に呼び出されてみれば、応接室には顔馴染みの警官が座っていた。
「四方山先生じゃないですか。どうされたんですか」
もちもちと丸い、いつも右手のハンカチで汗を拭いている、矯正の法務技官。名を四方山信(よもやまのぶ)を言う。ちなみにもう片方の手には扇子がある。常に両手が塞がっているのでよくスリに狙われるそうだ。結果、矯正官でありながら捜査一課の警官よりもスリの検挙数を上げるという偉業(?)を成し遂げている。
二年ほど前。母親にまあまあの怪我を負わせた俺は、確かにいっとき少年院に入っていた。しかし退院後もなお保護観察下で就業支援やカウンセリングを受ける機会があったのである。そのときの観察官がこちらの四方山先生。
先生はソファーが深くてお腹がつかえているようだ。いつも以上にくぐもった声。
「まさかこんなに早く再会するとはな、望月」
「もしかして俺、通報されました?」
「心当たりがあるのか?」
「いえいえ、ないです! となるとあれですか——」
「まあ座れ」
椎名先生の顔も伺いつつ席に着いた。四方山先生はふんと鼻を鳴らす。
「初めに言っとくが、今回お前は何もしとらん」
「はい。春夏李——炉端春夏李のことですね」
「なんだ、もう耳に入ってるのか」
「四方山先生には関係のない話ですが、昨日の時点でその話が生徒間に出回っていまして」
「本当か!?」と声を上げたのは椎名先生。
「噂話程度ですが」
「迂闊な教員がいたか……? すまない望月……本当に。恩を仇で返してばかりだな……」
「いいえ」
椎名先生に謝らせてばかりだが、申し訳ないのはこちらの方だ。恩らしきことなんてした覚えもないし。受け持った生徒が問題児ばかりで不憫である。
「話を戻すが、援交してたガキの彼氏が札付きと判明して取り調べしない訳にはいかん。つまり——売春防止法違反には勧誘、斡旋、強要した人間も含まれる」
「承知しています。疑われるのは仕方のないことです」
「それじゃあ浪花警察署まで付いてこい」
時計を見れば授業が始まる十分前である。
荷物を取りに行けば、夕暮れ時の教室には既に水壺が来ていた。いつもの一限メンバーであるところの残り一人、小泉はまだ姿が見えない。
荷物を纏めて水壺の方を見れば、向こうもこちらを見ていた。ちょいちょいと呼ばれる。
「悪いな一限は一人で受けてもらう」
「それはいい。よくないけど。——炉端は、結局?」
「捕まっただけらしい。全く、はあ、心配して損したよ」
「だけ?
「俺も春夏李もいつかは捕まると思ってたからあんまり驚きはないな。じゃ、もう——」
去り際の袖を引かれた。随分とつつましい引き止め方である。
「望月の友人として、言っておく必要がある」
「何を?」
「小泉八千恵のことを」
この時点で俺にもその予感はあった。小泉が関わっている予感が。
「僕はあれを駆除する必要があると思う。今回の件で決心した。そして僕には既に策がある。あれが学校に非常に居づらくなるような仕掛けを既に備えている」
「小泉を……?」
「僕も僕の哲学を押し付けている人間だから、他人の身勝手には寛容だ」
「お前、身勝手な自覚があったのか!?」
「あるよ……。——だから僕は彼女のことを見逃してきた。彼女には彼女なりの哲学があって、それに従っているのだろうと思っていた。これまでは」
「つまり小泉には、哲学が無い?」
水壺はこくりと頷く。
「そうとしか思えない。亜港先生の件、榎本先生の件、そして今回の件。他にも細かい、みだりに人を煽って場を乱す行為。全てを鑑みて指向性も文脈も感じ取れない。目的が無いままいたずらに人を弄んでいる」
「亜港先生の件を知ってるのか。榎本先生ってのは?」
「わざと抱き着き押し倒させて、その写真で脅している。これが最も悪辣でタチが悪く、胸糞悪い。望月は知る機会が無かったろうけど、知らなくて良かったと思うよ」
「な、なるほど。アイツ榎本先生を立たせたのか」
「は?」
「え、ごめん……」
「……君の知らない僕の余罪があるように、君の知らない彼女の余罪だってある。——本人なりに筋の通った哲学があるならば僕はまだ尊重した。けれどあれの底はもう知れた。ただの害虫だ。一刻も早く締め出すべきだと考えている」
続く言葉を待ったのだが、これで水壺は黙ってしまった。
「え、それで?」
「? だから小泉を辞めさせるって言ってるんだけど。望月はどうする?」
**
思うに、あの時の水壺は、俺の慄く顔が見たかったのではないだろうか。突然に手渡されたハサミの重さに怯える俺の顔を見ようとしていた。水壺が本懐を達成できなかった理由は、人は一度にいろいろ言われると情報を処理しきれないという常識を知らなかった点にある。
しかしいずれにせよ「時間の問題」だ。俺は試されることになった。
水壺はこの場面を具体的に予想していたのだろうか? まさかそんなことはないだろう。しかし俺が小泉に働きかけるかもしれないと考えていた。実際、自分に降り掛かった責任の重さに気付いてからは、小泉と会話する必要性に駆られることとなった。
水壺の「策」が何かは分からない。誰かを辞めさせたいと思ったって自由に辞めさせるなんてことは不可能だ。大口を叩いているだけ、ハッタリの可能性の方が高い。
だが、それを可能だと思わせるだけの実績が水壺にはある。
それを止められるのは俺だけだ。
ならば今俺の手には——ハサミが委ねられている。
「んー? なにー? そんな愛くるしい目で見つめられたって何もでないよう」
小泉の首にかかった、俺の意に反して閉じるハサミ。
「俺は……小泉のことが本気で許しがたいよ。いたずらでやっていい範疇を超えてる。人と共に生きていける人間じゃないのかもしれない。でも——それでもさ。やっぱり俺は小泉にも学校を辞めてほしくないんだ。どれだけ迷惑で不適切な人間であっても、救いの手は差し伸べられなくちゃあいけないんだよ」
この力に抗うつもりならば——。
「というか、誰にだって辞めてほしくなんてない。そう考えるのが当然だろ。なんでそんな常識から疑わなきゃあいけないんだ……?」
「……? なんか……思ってたのと違う感じだな。何の話? どゆことぉ?」
深呼吸して心を落ち着ける。私怨を振り払う。
——小泉を救うつもりならば。
「もう十時半か。小泉、家に連絡を入れておいてくれ、今晩は返せないかもしれない」
「え、おう。……ん? 今のも……どーゆーこと? え、ま、まさかおだちゃん、やちの身体を——」
俺は今日この場で、小泉という人間を丸裸にして、その芯に宿る哲学を見出さなければならない!
「覚悟しろよ小泉。俺はこれから、お前を丸裸にしてやる!」
小泉は自分の身体を庇うように抱いて赤面した。
「やっぱりそういうこと!!?」
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